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私たちの弔いは終わらない。暗黒の平等を照らすために。泰陽禅寺・本多清寛氏インタビュー。

私たちは、仏教のことを意外と知らない。多くの人は、親しい人の葬儀などを通してたまに触れるくらいであろうか。今一度、仏教・葬儀のことを知っておくことは、もしかしたら「無宗教」と言われる日本にとって大切なことなのではないだろうか。葬儀システムにまつわる不均衡やジェンダー問題など、現在伝統的な仏教が晒されている問題についても研究している曹洞宗 海福山 泰陽禅寺副住職、本多清寛和尚にお話をお聞きした。

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【Profile】
熊本県泰陽寺副住職本多清寛。お寺生まれお寺育ち。仏教系の高校と大学を卒業し、福井県大本山永平寺にて3年ほど修行する。曹洞宗の研究機関である曹洞宗総合研究センターに入所。学問としての仏教と、伝えるための仏教について6年ほど学ぶ。その後、ご縁をいただいて新宿二丁目のゲイバーで日替わりマスターをやっていた。現在は東京で曹洞宗の事務所に勤務している。

仏教は2500年に及ぶ運動の総体。

-元々お生まれがお寺なんですよね。

本多:そうです。物心ついたときから、「仏教」の教えというよりは「ほとけさま」が隣にいてくださった…みたいな感覚でした。

-お寺を継ぐということには、何かご苦労はなかったんですか?

本多:ありがたいことに、父からは「継げ」と言われたことはなかったんです。どちらかというとお檀家さんとか周囲の皆さんからの期待を感じていたかもしれません。年間行持なんかの時にもかわいがってもらったのもあり、自然と大きくなったら継ぐと思えていましたね。小学校の卒業アルバムにも、「国際的なお坊さんになる」って書いていたくらいなので(笑)。

-そもそもなんですが…「仏教ってなに?」と聞かれたらどのように説明されているんですか?

本多:どのように質問されるかでかなり答えが変わるんですけど、すごく真剣な相談の場で「仏教ってなんですか?」と問われたとしたら、その方が何に困っているのかを考え、その方にとって必要なことを答えてます。ただ、飲み会なんかでカジュアルに質問されたら「良かったねって感じです」とサラッとお伝えしますね。

-もう少し詳しくお聞きできますか?

本多:私自身の実感で伝えるのが一番いいと思っているからなんです。「このご飯美味しかったね」と伝えるように、僕自身も「仏教やってて良かったねって感じなんだよ」と伝えたいからですね。僕自身の実感を、なるべく明るく伝えるべきだと思っているので。あとは…ちゃんと説明するにはちょっと面倒だっていう…(笑)。

-(笑)。

本多:冗談です(笑)。仏教には、2500年以上もの歴史があるので、いろいろな解釈や言い方があるんですよ。未だに「これは真の仏教ではない」というような論争があったりもします。ですが、実はお釈迦様が亡くなられてから100年後くらいには、今ある論争に近いものは全て種が撒かれ、それからずっと喧々諤々論争をしているんですね。仏教というのは、この運動の総体の名前と捉えるといいかもしれません。その中心には「苦しみを無くす」という目的があります。簡単にいえば「苦しみ根絶運動」の総称が仏教と捉えていただくといいかなと。

ーなるほど。

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本多:「苦しみの抜き方・無くし方」というのは、すでにお釈迦様が完成させているんですよ。それ以外の方法は僕らにはないんです。ただ、それを教える方法・道筋っていくらでもあるよねってことなんです。そうすると説明方法は爆発的に増える。なるべく多くの人を救おうとすれば、目の前の個人にわかりやすく伝えていくしかありません。そうして日本の仏教は現代までつながっているんですよね。

ーあぁ教え方のカスタマイズが進んだということですね。

本多:そうです。こういった運動の中心にいる僧侶は「お釈迦様が悟ってくださった」ことに対するリスペクトと、実際に「お釈迦様の教えで苦しみから抜け出せた方々の経験」を信じて活動をします。それらをひっくるめて「仏教」と言えると思いますね。

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-それにしても2500年間に及ぶ議論ってすごいことですね。

本多:「苦しみの根絶」という1つの題材を元に2500年続けているんです。なので現代社会で巻き起こっている論争に近いことは大体起きたんですよね。面白い例があるんですけど…お釈迦様が僧伽(サンガ:僧侶が集まる場所)を作った時に、月に2回修行僧を集めて反省会をするっていうルールを設けたんです。それは今も形を変えながら続いているんですが、当時の反省会のルールだと、必ず一番最初にお釈迦様自ら反省を話したんですよ。今でいうと上司から反省会を始めるようなものです。なんだか、現代の会社やチームビルディングみたいですよね?議論だけでなく、そういった組織や運営も事細かに体系化されているのが仏教の面白い点でもあります。

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曹洞宗・宗派について。

-そういった仏教の中で、本多さんが所属しているのは、曹洞宗なんですよね?

本多:日本に伝来した中でも、お釈迦様をトップに据えている宗派のひとつで、特徴的なのは坐禅ですね。「禅宗」と呼ばれたりする宗派です。曹洞宗は、ライフスタイルの中心に坐禅を据えています。私は「静かに座って落ち着こ」って表現するんですけど、人間はやっぱり落ち着いた方が良い。何か行動を起こす前・行動している間・起こした後…なんにしても落ち着いているというのは良いことだと思うんですよね。

-仏教ってやっぱりちょっと不思議なのが、そういった精神を落ち着かせる作法の他に…なんか如来とか色々とこうファンタジックなイメージの世界観もあるように思うんです。それがゆえ、とっつきにくい側面もあるように思うんですが。

本多:それは、「救い」までの道筋が多様であるということです。宗派ごとでも道筋が違うんですね。おっしゃった通り「阿弥陀如来を信じていれば救われる」という道筋もあるわけです。現代だと、ファンタジックな世界観は虚構として扱われ、価値が低いものとして感じられることもあると思うんですが、私たちが救われる道の中で、ファンタジー・物語って強力に作用するんです。だから、宗派によってはそういう道筋も用意されていたりします

-バスケットボールはやらなくとも、スラムダンクで感動するみたいなことですね。

本多:そうですね(笑)。それこそ、2500年前にYouTubeがあったら、お釈迦様は絶対に使ってますよ(笑)。

-(笑)。

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本多:なにしろ、長い歴史の中で悟りの伝え方が多様になってしまったゆえ、皆さんの中で未整理なまま、「仏教」という一括りになってしまっているんです。多分昭和の初め頃までって「自分が何宗」なんて考える人は少数派だったと思いますよ。地域ごとにお寺があったので、基本的には自分の所属するお寺があれば良かった。だから「仏教」とか「宗派」っていう言葉・括りが必要なかったんです。

-あぁ自分の生活圏内のお寺のことしか知る必要がなかったんですね。

本多:テクノロジーの進化で、遠方との情報が埋まり、比較の中で情報が混乱してしまっているのが、現在ですね。もうひとつは、明治に神学が入ってきた時に対抗軸として「仏教学」という括りができたというのも影響していると思います。昔は「仏道」と言っていました。けれど、キリスト教やイスラム教などと区別するために、宗教の派閥を意味する「仏教」という言葉が使われるようになりました。そうすると聖書的な経典があってそれに基づいたものが宗教だと考える方が増え、仏教も同じように解釈する方が増たんだと思います。現在、仏教と呼ばれているものは、各地のライフスタイルに根付いたものが、他の地域に飛び火して混在している状態だと思っています。

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弔いと葬儀。

-今までのお話で、おぼろげではありますが仏教や曹洞宗の概要は分かったのですが…「葬儀」をお坊さんが担当するのって何故なんですか?

本多:任せる人がいなかったからじゃないでしょうか?今のような葬儀が確立する前は、村長がやっていたというような記録もあります。今のように宗教者が弔いを任せられるようになる前は、お坊さんはある種の世捨て人でした村人とは利害関係がない存在だからこそ、死者の世話を任されるようになったというのが、実のところではないかと思います。

-あぁ利害がないから、安心して任せられるというのは分かります。

本多:皆さん、葬儀となると仏教のものと思われますが、そもそもは「弔い」なんですよね。私は、亡くなった方の遺体を、人の尊厳を保って変化させることだと考えています。それこそ仏教誕生以前の縄文時代にもそうした痕跡がありますし、世界的に見ても5000年前にあったインダス文明に副葬品を伴った人骨が見つかっています。屈葬されていた人骨に花が手向けられていたという話も有名ですよね。そういった事実からも「人が死ぬ」ということが、生きて残された人々に物凄い影響を与えるからこそ、遺体を弔っていたと考えられます。

-あぁ人間の根源的な悲しみでもあったと。

本多:というか衝撃だったんだと思います。現代のような「葬儀」という儀礼ができる以前ですら「弔い」が必要だったんです。時代を経ることで、生きて残された人々が亡くなった人の尊厳を保ちやすくするために色々な儀礼を作りました。ただ単に人が亡くなればは「死体」という扱いなんですけど、弔うことで「遺体」として扱えるようになります。昔の葬儀で棺をみんなで肩に乗せ、厳かに抱えていたのも、その一環です。引きずらず、みんなで持ち上げることで、亡くなった方の尊厳を保つということを意味していると考えられます。

-そういう意味があるんですね。

本多:今、私たちがやっている葬儀は、納棺・納骨…ひとつひとつの作業を納めていくことを「葬儀」としています。面倒に思えるかもしれないのですが、そういうひとつひとつの物事を繰り返し納めることで、日常に戻ってこれる。葬儀という儀式を通して、一人だけでなく、周囲の力・儀礼を超えて、ようやく日常を取り戻せる形式化されていればこそ、誰かが亡くなったというパニック状態でも、どうにか儀礼をこなせるんです。

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本多:一見、お坊さんが目立つために着ているように見える絢爛豪華な衣装というのも、そういった形式の中に溶け込んできたようです。形式に則った衣装の僧侶が、形式に則って儀礼をしているということを視覚化し、遺された方々の思いを引き受けた上で引導を渡すことができるようになるからです。もし、初めて出会うお坊さんがボロボロで、みすぼらしい衣装を着ていたら不安になってしまいますよね。あの衣装も形式を保つ意味合いがあります。

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マイノリティの葬儀について。

-本多さんはこれからの葬儀についても研究されていますよね?

本多:これからの葬儀についての前提を少しお話しします。現代の葬儀にも通じる形が整ってきたのは室町時代くらいからだと考えられます。多くのお寺は信者を増やしていく中で、お寺を守る人々の名簿を作り、葬式を担当することでお亡くなりになった方のリストを作り…そうして「過去帳」というものができてきました。江戸幕府になって100年ほど経つと、この過去帳が元になり、「宗門人別帳」が作られるようになりました。お寺は地域全体をまとめる立場になっていきます。平安時代は国家の祈祷をする宗教だった仏教寺院が、社会の仕組みそのものに成り変わっていく中で、特定の人達を排除するように機能してしまいました

-排除…?

本多:江戸時代には身分がありますよね。この身分は公家や武士といった権力者と権力者に年貢を納める百姓を分けるものでした。そして、身分制度の中に入ることができない人々は制度の外におかれます。「宗門人別帳」は制度の中にいる人々を記載するものでしたから、制度外の人間は記載されなかったんです。ただ、村の死亡記録をする役割もあったため「宗門人別帳」やその「別冊」には、差別的な戒名が記録されていたりします。これは、今もなお記録に残っています。戒名には、この身分制度を色濃く反映した負の側面があります。厳密には戒名は院号や道号、位階というものに分けられます。その中の位階が身分を示すために機能しているんです。身分制度がなくなった現代であっても、その痕跡は完全にはなくなってはいません。もちろん、これは改正するために現在進行形で働きかけています

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-戒名にそんな側面があったんですね。

本多:そうなんです。痛ましいことですが、日本仏教には、社会制度から漏れてしまった人たちを無視してきた歴史というのがあります。その現実を受け止めた上で、現代の葬儀は、誰に対しても平等な儀礼として行っています分け隔てなく引導を渡し、葬儀を行う形式になったと言えます葬儀の形式自体は、不均衡はほぼなくなっているといえるでしょう。ただ、戒名に代表される細かな部分は色々な問題が残っているんです。例えば、曹洞宗の戒名は性別がはっきりしていますでは、今セクシャルマイノリティと呼ばれるような方々には、どんな戒名が相応しいといえるのか。。

-LGBTQ(+)のような…。

本多:そうです。Xジェンダーやクエスチョニングといったセクシュアリティの方にとって、死後の性別を断定した戒名は苦しいことだと思いますそういったセクシュアリティの方に付けて差し上げる戒名が曹洞宗としては難しい。現状は、ご本人が生前に考えていたことやご遺族の意向を丁寧に確かめることが不可欠です。これがとても繊細で、ご遺族の方とのコミュニケーションの問題に発展してしまう可能性があるんですね。

-どのような問題になってしまうんですか?

本多:例えば、田舎を出て、ご家族が思っている性別とは違うで生き方をしている人たちがいらっしゃいます。ご家族やご親族に、自分の生き方を知られないようにしてきた方が亡くなられた際のことを考えてみてください。ご遺族からすると”男性だと思っていたのに女性として帰ってくる…”ということが実際に起きてしまうんですね。

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-亡くなることで、生前ご本人が身内に隠してきたことが、バレてしまうということですね。

本多:そういった経緯を知った僧侶は、ご遺族に「どういう性別で戒名をおつけしましますか?」と質問しないといけないんです。ご遺族がどう納得されるか、そして故人は本当に納得されるのか…。先ほどの例ですと、弔う側である遺族からすると、故人が男性として生きた人生しか見てなかったわけです。故人のご意向が女性として生を全うしたかったとしても、これから供養をするご親族は生前、自分たちが接してきたご本人と違う遺影や戒名の故人に触れ合わなければいけなくなる。これで、残された皆さんは、心から救われるのだろうかと。

-遺影ともなると、毎日見る方もいらっしゃいますもんね。

本多:こういった問題を解決するべく、研究をしています。現段階では「故人は、どういう風に生きてどういう風になくなったんですか?どういう風に見送ってあげたいですか?」といった問いかけを丁寧に重ねていくことで、故人と遺族が納得できる弔いになると考えています。ただ、セクシュアリティについて考えたことのある僧侶がなかなかいらっしゃらない。基本的には、仏教の制度やシステムではなく、コミュニケーションの問題です。それが故、私たち僧侶は、こういった多様な問題にきちんと応えられるだけの研鑽を積んでおかねばと思っています。

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-個々で解答が違うとも思いますし、これは、かなり難しい問題ですね。

本多:当事者の方々にご安心いただきたいのは、先ほど言った通り、葬儀ということ自体は、皆さんとって等しいものです。私たち僧侶は亡くなられた方を「仏様」にする葬儀を行っています。「仏様」って仏像・仏画なんかを見ても、あまり性別が分からないと思いませんか?生きている間に苦しいことがあっても亡くなった後は、そういう一切から解き放たれる儀礼をおこなうので、死後のことは心配されないようにしていただきたいです。ただ、生きている間に心配なことはお坊さんにぶつけて欲しいです。私は葬儀の周辺にある因習をひとつひとつ整えることで、安心して弔いができる社会に貢献できればと思っています。

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仏教の未来と寺院のあり方。

-仏教の未来について、本多さんはどのようにお考えですか?

本多:仏教の未来というのはあまり考えていません(笑)。悲観も楽観もしていません。2500年色々なことがあっても続いていますから(笑)。ただ、仏教教団については、思うことはあります。実は教団については、明治時代にふんわりと生まれ、紆余曲折がありながら戦後に確立したようなものなので、意外と若いものなんです。社会や世相の中で今の教団組織が生まれたので、未だ定まらない部分はあると思っています。

-意外と近代の話なんですね。

本多:もうひとつは、お寺のあり方には未来があると思うんです。お寺って、「みんなのもの」なんですよ。世間に良く揶揄もされる宗教法人が非課税ということがあります。これって本来的には「みんなのもの」だからだと思うんです。同窓会の会費に税金がかからないようなイメージです。だから、お寺のあり方を自由にするという意味でもサロン化するというのは、ひとつの未来かなと思っています。そうすることで、地域を盛り上げることにもつながりますし、ひとつのコミュニティのハブになるといいなと思います。そういう活動の先に、みんなが「良かったね」って思える仏教であるといいなと思っています90年代のカルト宗教事件を体験していない20代には、伝統仏教に関心を持っていただける方が増えています。今の日本では宗教が信頼を失ったと言われたりしていますが私自身は、失った信頼があればそれを取り戻せるよう、そして「良かった良かった」って言えるように進んで行けたらと思っています。

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これからの世界で失いたくないもの。

-では、最後の質問です。本多さんがこの先の世界で失いたくないものは?

本多:これ、すごく難しい質問ですね…(笑)。そもそも仏教には「全てを一回捨てなさいよ」という教えがあるので、とりあえず失いたくて禅宗やっているようなものですから・・・(笑)。うーん…あえて言葉にするなら「面白み」ですかね。私は面白みのあることしかやらないようにしているんので、全てを失くして「悟る」まで、その道筋を照らしてくれるのが「面白み」なのかもしれません

Less is More.

軽妙で、誰にでもわかりやすく仏教と曹洞宗を伝えてくれる本多氏。そんな氏が取り組む葬儀にまつわる不均衡を軽減させるための活動。現代社会に残る問題を、少しずつだが未来に向けて整理していく姿は、インタビュー中でもどこか感動させられた。興味を持たれた方は、是非お寺に足を運んでみたり、僧の皆さんに葬儀や宗教に対する疑問を気軽に聞いてみて欲しい。

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(おわり)


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