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エビデンスは思想を越えるか。EBPMを幻想にしないために。杉谷和哉氏インタビュー。

政治をデータやエビデンスに基づいて運営するというEBPM=Evidence Based Policy Making(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング)=「証拠に基づく政策立案」。

昨年、当メディアでもEBPMについてお話しいただいた杉谷氏は、この一年で『エビデンス』をめぐる状況が大きく変わったと語る。同時に、EBPMや政策評価の想定は、今のままではファンタジーに過ぎないとも論じる杉谷氏に、これからの政治や政策の展望について、改めて話を伺った

プロフィール:杉谷 和哉(すぎたに・かずや)1990年大阪府に生まれる。公共政策学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得認定退学。博士(人間・環境学)。現在、岩手県立大学総合政策学部講師。 著書に『政策にエビデンスは必要なのか』(ミネルヴァ書房)、共著に、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、『専門分野の越え方』(ナカニシヤ出版)などがある。

↑前回のインタビューはこちらからどうぞ。

エビデンスは厄介な言葉になった?

-どうぞよろしくお願いいたします。

杉谷:「エビデンス」にまつわるお話は、ここ一年で随分と厄介になった印象があります。私もなるべく慎重にお話します。

-読者の皆様もどうぞお手柔らかにお願いいたします。厄介な印象になったとお感じなんですか?

杉谷:2023年は、医療や政策といった、これまで舞台となってきた分野以外でも「エビデンス」に関する記事がたくさん出て、議論が活発になったと感じています。エビデンスという言葉が一般化することで、解釈も多様化して一人歩きしているようにも思っています。あらためて、政策分野における「エビデンス」の中身を確認しておくと、EBPMにおけるエビデンスとは政策における因果関係を表す、極めて狭い意味合いで使われていました。

-なるほど。

杉谷:それが最近では、EBPMにおいても、エビデンスの意味が広義になってきました。例えば、内閣府も「現状確認のためのエビデンス」と、「政策効果把握のためのエビデンス」とを分けて使ったりしています。これはこれとして、ちゃんと整理されて使われていれば特に問題はありません。もう一つ思っているのは「エビデンス」をめぐる最近の議論の振れ幅が大きいということです。

-振れ幅?

杉谷:つい数年前、トランプ大統領の時代には「ポストトゥルース」なんて言われていましたよね。客観的な事実と異なる「オルタナティブファクト」「フェイクニュース」が跋扈した時代を指した言葉でした。当然、否定的な意味で用いられることが多かったわけで、あの時には、「エビデンスや客観的な事実こそが政治にとって大事なんだ」といった議論が増えたように思います。
ところが、最近では「いや、エビデンスだけではダメだ」という風潮も目立ってきました。「それってあなたの感想ですよね」という、いかにも思いやりを欠いたフレーズを批判的に取り上げ、何でもかんでもエビデンスで決めてしまおうとする風潮に疑問を投げかける向きもまた、強まっている。ついこの間まで、我々は「ポストトゥルース」という状況を真剣に議論していたのに、今や状況はすっかり変わってしまった。こうした目まぐるしい変遷には、戸惑いを覚えるというのが正直なところです。

-あぁ。なるほど。ちなみにエビデンスだけではダメだと主張される方々は、何を指針にすべきと思われているんですか?

杉谷:私が観測している範囲での話ですが、データや数値で人間を測って優劣をつけることへの反発や、競争を助長するのではないかという不安があるようですね。
数値だけでは測れない経験や語り、つまり個々人のナラティブが大事なのではないかというのが、エビデンス偏重への反論として取り上げられることが多いようです。あくまで私の観測範囲での話なので、参考程度にしていただければと思いますが。

-エビデンス派/ナラティブ派と分けて対立を煽る意図はないのですが、杉谷先生ご自身は、どのような立ち位置なんでしょうか?

杉谷:ナラティブが大事であることは、本当によく分かります。エビデンスだけでは括れない社会的立場も存在することは確かですし、効率が悪くとも議論をする必要性もあると思う。決してエビデンスだけでOKとは思わない。
ただ、数字による管理が一切ない社会もありえません。私たちが社会、共同体を運営していくために数字は必要不可欠です。数字やデータに基づくエビデンスだけの管理はダメだというのもよく分かる反面、数字で管理しない社会もありえませんよね。

-あぁ。確かに。

杉谷:私たちが考えないといけないのは、社会を運営するにあたって、どういうエビデンスをどういう状況で使うべきかということじゃないでしょうか。一人一人の経験を尊重するナラティブも、客観的なエビデンスもどちらも必要なんです。状況に合わせて適切に判断していくしかないんですよね。医療でも、「エビデンスに基づく医療」に対して「ナラティブに基づく医療」みたいなことが言われていますが、実際にはエビデンスとナラティブ、両方大事だよねという話に落ち着いています。

-あぁ。エビデンスって主語が大きすぎるのかもしれませんね。本来イシューごとにバランスを考えていくべきだろうと。

杉谷:そうかもしれませんね。ただ、困ったことにイシューごとのバランスを決める前提段階で、エビデンスかナラティブか…という論争が生まれているケースも多いんですよ。

-禅問答のような状態ですね(笑)。どうしたらいいとお考えですか?

杉谷:私は「価値観」という軸から考えるのが大事だと考えています。我々が考える良き社会とは?どんな社会に生きたいのか?とか、そういう軸で考えるのは一つの手だと考えます。そもそも、政策を決定する背後にある「価値観」を論じないと、エビデンスかナラティブかといった対立構図には意味がないと思っています。

政策の背後にある、価値観から考える。

-価値観?どういうことですか?

杉谷:事例を出しながらお話してみますね。例えば、最近東京都が婚活用の「マッチングアプリ」の提供を発表しました。

杉谷:結婚するかしないかというのは、本来すごく個人的で、センシティブな問題です。たとえ、「家族を持った方が幸せになる」というエビデンスがあったとしても、それを政府が押し付けて許されるのか?という問題がありますよね。政府が口出しして良い問題だと思いますか?

-個人的には、あまり口出して欲しくないですね…。

杉谷:政策は基本的にはお節介なものなんですが、結婚にまで口を出してくるのは「余計なお節介」だと思うということですね。

-そうですね。お節介はいいかもしれませんが、余計なお節介は嫌ですね。

杉谷:こうしたお節介は専門的な言葉で、「パターナリズム」(強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益のためだとして、本人の意志は問わずに介入・干渉・支援すること)といいます。
このパターナリズムの介入をどこまで許すのか、どこからが余計なお節介なのかは価値観によって決まると思っています。

-なるほど。

杉谷:ですから、先ほど結婚にまで口出しして欲しくないと思われたのは、現在のあなたの価値観に基づいて、政策評価されたわけです。

-あぁ。なんか自然と、自分の価値観で評価しているんですね。

杉谷:つまり我々は、政策を評価する場合にもエビデンスを活用する場合にも、こういった価値観に基づいた判断を下し、政策を解釈しているということです。加えて大事なのは、このような価値観は時代と共に常に変化しているということですね。

-あぁ。自分や自分達の価値観って、変化も含めてなかなか気がつきにくいということですよね。

杉谷:価値観が抜け落ちて政策評価されているケースがすごく多いんです。
例えば「経済成長する政府」というマニフェストがあったとします。目的も明確で、一見すると分かりやすかったりしますよね。
でも、そもそもの経済成長の是非については議論されていなかったりする。本当は、自分達がどんな価値観を持っていて、経済成長するべきなんだっけと、もう一度立ち返って議論する必要がありますよね。

-言われてみると、自分自身がどういう価値観で政治を評価しているのか、ちゃんと考えてみる必要があるかもしれませんね。

杉谷:どういう価値観や基準に則って政策は作られているのかという点を取り扱う政策研究は、政策規範論と呼ばれています。この政策規範論とEBPMというのは本来的には両輪として回す必要があると思います。

右派・左派。EBPMは思想の対立を乗り越えられるか。

-前回のインタビューを公開した後に、杉谷さんから「右派寄りの方にも左派寄りの方にも概ね受け入れられて嬉しかった」とご感想いただきました。

杉谷:そうでしたね。

-概ね好評とのことで、ホッとしつつ、EBPMは右派・左派みたいな、対立しがちな政治思想を乗り越えられる可能性もあるのかなと思ったんです。

杉谷:それはその通りですね。EBPMの歴史から見ても、その可能性はあると思います。
EBPMは、1997年にイギリスで発足したブレア政権時に本格的に始まりました。英国の二大政党制は、いわゆる「右」にあたる保守党と、「左」に類する労働党によって担われています。ブレアは労働党の議員で、もちろん「左」の側の政治家です。しかし、彼は当時の労働党の方針を変え、「Modernis(z)ing Government」、政府の近代化を掲げました。「国営化」のような、いわゆる左派色の強い政策を抑えて、「賢い政府・効率よく運用できる政府」を打ち出すことで選挙に勝利したのです。

-右・左の思想を持ち出さなかったんですね。

杉谷:そうです。右・左でなく、「役に立つ政府」を打ち出したわけです。右派であろうと左派であろうと、無能な政府と有能な政府のどちらを選びたいかと言われれば、「有能な政府」をほとんどの人が選びますよね。ブレアはそこを上手に突いたわけです。この事例を見ても、EBPMが思想的な対立を超えられる可能性を感じますよね。が、ことはそう単純ではありません。ここには批判もあるんです。

-どのような批判ですか?

杉谷:政策が役に立つだとか、機能する…という言説になると先ほどお話しした「価値観」が抜け落ちて、政治的議論が「誰がどれだけうまくやれるか、どうやったらうまく、効率よくやれるか」という技術論にすり替わってしまうんですよ。

-あぁ!なるほど!政治がちょっとツールっぽい印象になってしまいますね。

杉谷:それは政治のあり方としてふさわしいのか?政治をツールのように語っていいのか?という批判があるんです。これはなかなか鋭い指摘ですよね。

-確かにそうですね。

杉谷:もう一つ問題なのが、「数字は嘘をつかないけれど、嘘つきは数字を使う」というやつです。右派であれ左派であれ、エビデンス=客観的事実を持ち出して、それぞれの論調を補強したがっている風潮が今日、強まっているように思います。
明け透けに言いますと、自分の党派の主張に合致する都合のいいエビデンスだけを持ち出し、不利な場合は相手の統計の取り方を揶揄したり、エビデンスを不当に無視した議論を展開したりするケースは多く見られます。

-あぁ。なんか残念なエビデンスの使われ方ですね。

杉谷:思想対立を超える可能性はあれど、右派も左派もエビデンスをそうやって使っている感は否めないのではないでしょうか。両陣営とも、自分たちに都合のいい時にはエビデンスを金科玉条のように掲げ、都合の悪い時には無視したり、相手の粗を探したりする・・・ですので、エビデンスに基づいて政策論議を進めたとしても、現実には政治対立はなくならないと思います。これは政治に限った話ではありません。企業なども、自分たちに都合の良いデータを恣意的に利用していることがあり、大きな問題になっています。データやエビデンス、情報を巡るこうした対立は、世界中で起きているんじゃないでしょうか。

データを取る前から考える。

-都合のいいエビデンスを持ち出さないためにも、データを取る前からしっかりと合意をとって、計画してみるのはどうでしょうか?

杉谷:私が『政策にエビデンスは必要なのか』でも援用した政治学者、ピーター・トリアンタフィロウ(Peter Triantafillou)の議論を拝借して、この点を考えてみましょう。データ先進国と言われ、EBPMの実践例もたくさんある米国の場合、「貧困層の教育実態」や「荒れている家庭への支援状況」などについて、多くのエビデンスがあります。こうしたエビデンスは確かに有用で、政策の為になるのですが、よく見てみると、いわゆるアンダークラス、つまり貧困層や社会的弱者を支援するためのデータが多い。ここには政治的な理由があるとトリアンタフィロウは指摘します。彼が言うには、アンダークラスへの介入が容易だからじゃないかと。RCT(Randomized Controlled Trial、ランダム化比較試験)みたいな対照実験をやるには、介入する際に、「政策を実施するグループ」と「実施しないグループ」に分ける必要があります。このような介入をするには、政治的な権力が必要です。いわゆるアンダークラスの人たちは権力を持たないことが多いので、介入が簡単にできる。だからそうした人々を対象としたエビデンスが豊富にあるのではないか、とトリアンタフィロウは論じるのです。

-なるほど。

杉谷:もちろん、米国の場合は、アンダークラスの人々を支援する社会政策への関心が高いという側面もあるので、全てをそうした理屈で説明するのも適当ではないように思います。ですが、たとえば「政治家の汚職防止」のEBPMなんて、ほとんど聞いたことがないわけで、エビデンスの蓄積に偏りがあるのも確かなんですね。実験をしやすい政策としにくい政策という違いも無視できませんが、そもそも政治権力を持っている人に対して、実験等の介入がしにくいというのも、大きな理由なのではないでしょうか。こうした理路を経てトリアンタフィロウは、エビデンスそのものの創出段階で既に偏りがあるじゃないか、バイアスが掛かっているじゃないかという批判を繰り出しています。なかなかに鋭く説得的です。

-確かに。

杉谷:他にもCritical Policy Studies(批判的政策研究)と呼ばれる分野が、EBPMに隠された権力構造を批判しています。こうしたアプローチにおいては、EBPMは客観的・合理的を盾にした、タチの悪いものだと論じられることが多い。本来はエビデンスの背景にある、社会の構造や仕組みを批判的に分析しないと、既存のダメなシステムを温存するだけで、よりよい政策に繋がらないのではないか、といった主張を展開しています。

-EBPMにも共感できる一方で、その主張もとても共感できますね。

杉谷:これらの議論を展開する論者らも、決して政策にエビデンスは必要ではない、と言っているのではありません。エビデンスに頼り切って深く考えないと、政策における大事な側面を見落とすことになるんじゃないか、というのがこれらの主張の眼目です。
こうした、世界の政策研究における議論の付置を踏まえたとき、日本の言論状況には少し不安を感じます。というのも、研究者やオピニオンリーダー、ジャーナリストといった、言論を牽引する責任ある人々の中に、率先して分断を図っている人がいるように思うからです。
統計分析に携わる研究者は「数値やデータ、エビデンスだけではダメだろう」という批判は百も承知の上、研究手法を洗練させてきました。一方、エビデンスだけではダメだという立場の研究者たちも、「データがないなんて単なるお気持ち表明だ」と厳しい批判にさらされながらも、その手法や思想を必死に練磨させて来たわけです。双方共に、心ない批判にさらされ、傷つきながらも一生懸命、自分の研究をよりよいものにしてきた筈なんです。こうした努力をお互いに知らないせいなのか、単なる貶しあいになっているケースは少なくないんじゃないでしょうか。

-双方努力をしてきたのに、不毛な論争になってしまうなんて悲しいですね。

杉谷:EBPM推進派の「エビデンスで全体の傾向を把握して、政策決定したい」というのと、Critical Policy Studiesの「不平等や不公正を作る構造が問題である」というのは、そもそも問題の立て方や関心、リサーチクエスチョンに至るまで、まるで違うわけです。
私は、両方とも社会に必要だと思っています。大事なのは、お互いが双方の方法論や問題意識を分かった上で、共同して駆動していくことです。そのためにもたとえば、"ナラティブ/エビデンスの両方が当然必要だ"と念頭に置くことが大事ではないでしょうか。無理解に居直って貶し合うのではなく、相手のディシプリンに対する敬意や思いやりを持たないといけないのではないでしょうか。

EBPMは魔法の杖ではない。

-議論にエビデンスを持ち出されると「自分でなくて、データがこう言っている」となりがちな気がしていて。EBPMにおいて責任を誰が取るのでしょうか?

杉谷:それはいい質問ですね。もう一度ブレア政権のお話をします。当時、EBPMは「De-Politicis(z)ation、脱政治化」と言われました。まさに政治的な責任について、データやエビデンスを盾に開き直るんじゃないかという議論が起こったんです。これもEBPMの負の側面の一つと言えるかもしれません。

-ちょっと怖いですよね。

杉谷:勘違いされるといけないので、エビデンスに依拠することが大事だというのは繰り返し強調しておきましょう。ただ、同じ数字や同じ情報を与えられても、判断の仕方が同じになるとは限りませんよね。思っても見なかった結論に行き着くことはあります。エビデンスを政策に落とし込むその道筋は、政治の機能として残る筈です。エビデンスやデータを政策に落とし込むにはどうしても「解釈」の余地が入りますから、ここにはやはり、政策決定者の裁量が残されるのではないでしょうか。

-話をお聞きするうちに、EBPMには期待しつつ、期待しすぎない便利な手法やツールくらいに思っている方がいいのかなと思いました。

杉谷:その通りだと思います。2000年代に、かなりの期待を背負って導入された「政策評価」が既に形骸化したことを考えると、期待しすぎないというのは重要ですね。
多くの人が、全てを良くする魔法の杖を求めてしまいますが、社会を良くする魔法の杖なんて存在しないんですよね。かといって、エビデンスを軽んじるわけにもいかない。過度な悲観にも、過度な期待にも振り切らず、どのように中道の立ち位置を保つかというのが大事ではないかと思います。

-期待しすぎることなく、エビデンスを元に、みんなで楽しく話し合えるといいのかもしれませんね!

杉谷:極めて穏当な結論でまとめにかかっていませんか(笑)?

-あ、バレましたか…すみません(笑)。

杉谷:そう簡単ではありませんよ(笑)。中道を保つためにも、政策評価が導入された際のお話をしてみますね。

EBPMをファンタジーで終わらせないために。

杉谷:では、突然ですが、お住まいはどちらですか?

-東京都の●●区です。

杉谷:●●区の自治体が良い政策をしている方がいいですよね?

-もちろんです!

杉谷:では、●●区の政策評価に関する情報をご覧になったことはありますか?

-う…。ないです…。

杉谷:普通はないと思いますので、安心してください(笑)。大多数の人々が、自分の住んでいるところが良い政策をしている方がいいと思っています。それなのに、政策評価の情報は誰も見ないし、それらは投票行動にもつながらない。政策評価の結果と投票先がキチンと自分の中でつながっているという方は、極めて稀だと言えます。
こうした現状に対して、政策評価が導入される時の想定はこうでした。つまり、「政策評価を導入すればみんなが評価をみて、投票行動にもつながる。政治家も政策評価を気にして、いい政策を進めるだろう。より良い社会になる」というものですね。でもそうはなっていません。結局、このような想定は、机上の空論であり、ファンタジーに過ぎなかったんですよ。

-ファンタジー!

杉谷:期待を背負った政策評価でしたが、導入されてから20年以上経過し、現在はほとんど形骸化しています。多くの有権者は関心を払っていませんから、行政の膨大なリソースを投入して作られた、山のような評価に関連する資料や情報は、ほとんど誰にも見られることはありませんし、予算に活用されることも多くありません。ですので、評価の作業に携わる職員らには徒労感が募っていると思います。「意味あるの、これ?」という感じですね。では、EBPMはどうか?エビデンスをもとに、私たち一人ひとりが、投票行動をできるか。もちろんエビデンス以外の要素、価値観だとかを重視して投票に行ってもいいわけですが、前提として、キチンと政策に関する情報を考慮に入れているか、という話ですね。本当はそこまで貫徹しないと政策評価であれEBPMであれ、機能しないのではないでしょうか。

-情けないですが、エビデンスを見ても理解できない気がしますし、きっと見ないだろうなと思います。

杉谷:ある政策を実施したことによってどのような成果が出たのか、行政には市民にわかりやすく説明する責任がある。これを説明責任=アカウンタビリティといいます。説明できないのであれば、きちんと責任をとる必要があります。政策評価結果をどれだけわかりやすく市民に伝えるかというのは、大事なテーマだと思うんですよ。

-わかりやすく説明してくれるなら…もしかしたら見たり聞いたりするかもしれません。

杉谷:政策評価の第一人者である同志社大学の山谷清志先生は「アカウンタビリティというのは本来、市民の教育や社会全体も考えながら回していくべきもので、それらを欠いた状態で論じても意味がない」という旨を指摘しています。要は、政府や自治体が努力するのは当然として、市民の側がアカウンタビリティを追求し、それらの情報を踏まえて行動するという状態でないと、双方空回りして徒労感・無力感に捉われ続けるということですね。残念ながら、今日の政策評価は事実上、そうなってしまっています。

-私たち市民側にも理解する努力が必要ってことですか?

杉谷:それはそうなのですが、数十年経っても現実が理想に到達していないという事実を重視すべきだと思います。おそらく、多くの人が評価の情報を理解し、それらを踏まえて投票し、更に説明責任が不十分なら追求し、政治家や公務員もそれに誠実に答える、という想定そのものに、かなり無理があるのでしょう。前回のインタビューでも話題にした行政事業レビューですが、公開プロセスは議事録だけでなく、YouTubeで映像についても全編公開されています。もちろん、ほとんど誰も見ていません。

-見てみると確かにあんまり視聴されてませんね…。どうしたらいいでしょうか?

杉谷:先ほど「エビデンスを元に、みんなで楽しく話し合う」とおっしゃっていたのは間違いではないんですよ。現在EBPMに訪れている機運を、そういう議論にまでつなげていくことは大事なんです。その際に、データやエビデンスだけでなく、周辺の利益相反や因果をまとめて、広い議論に発展させることが重要だと考えています。

-あぁ。それこそ、Critical Policy Studies的な視点も取り入れながら、EBPMを考えていこうと。

杉谷:その通りですね。政策研究も、定量的なものから定性的なものまで幅広く、理論研究もあります。こうした多様なアプローチが併存して政策を論じることが、EBPMをよりよいものにしていくと私は信じています。
同時に、過去を振り返る歴史研究、みたいなのも大事だと最近は考えるようになりました。EBPMに訪れている熱狂は、かつて政治に携わっていた方々には既視感がある筈です。現状のEBPMは、かつてのマニフェスト選挙などと同じ、歴史上に何度か訪れる大きな流行の一つにすぎないのかもしれません。
要するに、EBPMやエビデンスに、もうすぐみんな飽きてしまうのは、目に見えているんですね。熱狂は必ず失望に変わってしまいます。それは仕方ないことでもある。それでも、政策を合理化する、社会をちょっとでもよりよいものにしようという努力を諦めてはなりません。そのためにも、過去の失敗を思い出して学び続けないといけない。投入される膨大なリソースを無駄にしないためにも、過去の挑戦や努力を振り返り、そこから教訓を得ることが必要なのです。

これからの世界で失いたくないもの。

-では、最後の質問です。杉谷さんがこの先の世界で失いたくないものはなんですか?

杉谷:分野を違えた人たちとの交流ですね。私自身もさまざまな研究者や企業、コンサルタントの皆さんとEBPMについて話しています。時に対立することもありますが、こういう交流はとても大事なんですよね。『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』でご一緒した谷川さんや朱さんもそうですが、それぞれの世界の見え方があり、いつも刺激を受けています。お互いが大事にしている世界、その違いを認め合いつつ、お互いに頼り合えるような関係になれたらいいなと思います。そうした縁は、これからも更に広げていきたいと思っています。

Less is More.

私たちは、もっと政治の話を楽しくできたらいいのに。杉谷氏のインタビューで本当にそう思った。
杉谷氏は、とにかく楽しそうに、意見を聞き、意見を話してくれた。意見を違えても安易な衝突をせず正面から話してくれる姿を見ていると、政治というのは、面倒臭くて厄介だけど、楽しいものだと改めて思えた時間だった。

(おわり)


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