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EBPMから考える政治の未来。民主主義の価値は過程にこそ。杉谷和哉氏インタビュー。

EBPM=Evidence Based Policy Making(エビデンス・ベースト・ポリシー・メイキング)をご存知だろうか?
「証拠に基づく政策立案」と訳されるEBPMは、現在世界中の先進国が取り組み始めている。日本政府も、「政策立案をエピソード・ベースからエビデンス・ベースへ」というスローガン掲げEBPMへの取り組みを急ピッチで進めている真っ最中だ。
内閣府の該当ページを見ると「政策の企画をその場限りのエピソードに頼るのではなく、政策目的を明確化したうえで合理的根拠(エビデンス)に基づくものとすること」とあるが、このEBPMとは一体どういうことなのか、岩手県立大学 総合政策学部 講師 にして「政策にエビデンスは必要なのか EBPMと政治のあいだ(ミネルヴァ書房)」の著者でもある杉谷和哉氏にお話をお伺いした。

プロフィール:杉谷 和哉(すぎたに・かずや)1990年大阪府に生まれる。公共政策学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得認定退学。博士(人間・環境学)。現在、岩手県立大学総合政策学部講師。 著書に『政策にエビデンスは必要なのか』(ミネルヴァ書房)、論文に「EBPMのダークサイド:その実態と対処法に関する試論」(『評価クォータリー』63号)、「新型コロナ感染症(COVID-19)が公共政策学に突き付けているもの」(足立幸男との共著、『公共政策研究』20号)などがある。

-今日はEBPMについてお聞きしたいのでどうぞよろしくお願いいたします。

杉谷:よろしくお願いします。

-早速ですが、EBPMってどういうものなんでしょうか?

杉谷:最新のデータサイエンスや統計学、実験等を組み合わせて導出された、政策の因果関係を示すものを「エビデンス」と呼びます。これに基づいて政策を決定していくというのがごく簡単なEBPMの説明ですね。最近、世界中で流行していますが、ものすごく新しい考え方かというと、そういうわけでもありません。「政策は合理的・科学的に決定できるのではないか」という研究はかなり古くから続けられてきました。その流れが現代のEBPMにつながっています。もっとも、行動経済学をはじめとした、様々な学問の発展もありますから、かつてと全く同じものを繰り返しているだけというのもやや一面的な見方ですが。

-日本でも少しずつEBPMが注目され始めましたよね。

杉谷:日本政府は「政策立案をエピソード・ベースからエビデンス・ベースへ」というスローガンのもと、EBPMの取組みを2018年頃から本格的にスタートしました。ただ、これは急に言い出したというよりは、ある程度今までの政策の流れを汲んだものでもあります。なので、今まで行われてきた取組みとの差別化や、それらとどう違うのかといったことがちょっと曖昧になってきている感もあり、やや論争的です。これは後でもう少し詳しく触れようと思います。

-EBPMって実際に、どのように活きるんですか?

杉谷:EBPM先進国のアメリカ・イギリスでは、成功例は数多くあると言われています。有名な例に、「スケアード・ストレート」というプログラムに関する評価がありますが、ちょっと面白い事例なので簡単に紹介しておきましょう。これは、非行に走る少年らを主に対象とした非行防止のプログラムです。内容は、そういったいわゆる「グレた」少年たちを刑務所に訪問させ、実際の受刑者と対面させ、色々と話をさせたりするというものです。

-そんなプログラムがあるんですね。

杉谷:刑務所の囚人たちはおっかない人たちばかりで、非行少年たちは脅されたりします。それで、囚人たちから「こんな大人になるな、真っ当に生きろ」と諭されるわけですね。これはかなり感動的な場面です(笑)。

-(笑)。

杉谷:道を踏み外した大人たちからの真剣なメッセージを受け取って、非行少年たちも真っ当に生きるようになる…という意図のもとに設計されたプログラムなんですね。日本のバラエティ番組でも度々、紹介されているので、知っている方も多いかもしれません。では、このプログラムの効果は本当にあるのか。プログラムを受けた子と受けていない子を比べれば、それは分かりますよね。

-なんか、効果ありそうな気はします。

杉谷:それが、結果的にプログラムを受けた子の方が、非行に走る可能性が高くなったという結果だったんです。

-そうなんですか!

杉谷:このように、一見するといかにも効果がありそうな政策が、実際には効果がなかった、というのが分かるのがEBPMの面白いところですね。

-そもそも、杉谷さんは、どうしてEBPMの研究を始められたんでしょう?

杉谷:学部時代から、元々政治には関心がありましたが、政策にはそこまで興味がなかったんです。今ほど「エビデンス」という言葉が一般に浸透していなかった2016年くらいに修士課程で出会った先生方が「エビデンスに基づく政策」というのを強調されていて、興味を持って研究を始めました。本当は、「政治哲学」のような、政治に関する哲学的な考察を主軸とする分野を専攻したかったのですが、大学院に進学して、自分にその才能が全くないと分かり、早々に専門を変えることになりました(笑)。

-政治哲学ってどういう分野なんですか??

杉谷:一言で説明するのはすごく難しいんですけど、公共政策との関係で言うなら、たとえば、「公平な分配とは何か?」ですとか「平等とは何か」といった、抽象的な問いから政治や政策のあり方を考える学問です。最近だと、気候変動をめぐって、途上国と先進国のあいだに生まれる不平等をどう考えればよいか、といったことについても研究が進んでいます。あとで話しますが、こういった見方はEBPMと決して無関係ではありません。EBPMに話を戻すと、EBPMを唱える研究者の中でも色々な立場があります。例えば、データサイエンス分野に長けた方や、政策研究を中心に研究を進める方。その両方に専門家は多数いますが、私自身は、EBPMが現実のシステムの中でうまくハマらないギャップを、どちらかと言うと、哲学的な領域も含めて考えていく研究に取組んでいっています。

杉谷氏の著作「政策にエビデンスは必要なのか EBPMと政治のあいだ(ミネルヴァ書房)」

EBPMにおける「エビデンス」とは?

-そもそも、EBPMにおける「エビデンス」ってどういうことを指すんですか?

杉谷:一般的には、医療におけるエビデンスの考え方と同じく捉えると良いと言われています。1990年代のイギリスで社会科学においても医療と同じくらいの精度が必要だと言われ始めたと思いますね。

医療におけるエビデンス参考イメージ。

-医療におけるエビデンスって生死に直結しますから、それほどの精度を求めようということですね。ただ、政策や社会科学となると、医療よりも統計が取りづらいということはないですか?

杉谷:おっしゃる通り難しいです。政策となると私たち生活に直結していることも少なくありませんし、片方にはある政策をする/片方にはしない、というような状況は、不平等ですので、おいそれとできるわけではありませんよね。なので、かなり長い間、政策では実験なんてできない、というのが常識だったんですね。それが、統計手法が進歩した現在ですと「自然実験」と呼ばれる手法で、より正確なエビデンスを導き出すこともできるようになった。

-自然実験?

杉谷:歴史の中で、自然と実験になっているような政策例を探してきてエビデンスを導く手法です。有名な例としては、アメリカはベトナム戦争においてランダムに徴兵したんです。そこで戦争に行った方/行っていない方で分けられますよね。

-あぁ!自然と「ランダム化比較試験」になっているんですね。

杉谷:そうです。その両者の現在の就業率ですとか収入の差を比較することで、自然と大規模な実験結果として現代に活かせられるわけです。それに加えて、日々増えていくビッグデータ、子供の出生率のような数値も活用することでなるべく正確な「エビデンス」を導いていくわけです。このような数字を用いて組織を管理してプログラムやスタッフの評価を行うアプローチは、「業績管理」と呼ばれています。民間企業で導入されている仕組みがもとで、1990年代から公共セクターでも用いられるようになってきました。

-なるほど!

杉谷:とはいえ「エビデンスとは何か」については、EBPMの研究者の中でも明らかな定義が決まっておらず、今でも議論があります。私の本でもそのあたりは結構、どっちつかずで書いたところがあり、他の研究者から批判されることもありますね。私自身もまだまだそこは研究中です。

日本におけるEBPM活用。

-日本では、EBPMにをどのように活用し出しているんですか?

杉谷:まず前提からお話します。2000年頃から「政策評価制度」の重要度が増しました。

-「政策の評価の客観的かつ厳格な実施を推進し、その結果の政策への適切な反映を図ること」を目標に始まった制度ですね。

杉谷:この制度自体が現在までうまく行っているかというと、非常に不満も多いような状況だったんですね。実際に年々形骸化していく側面は否めなかったと思います。そういう機能不全を起こしているような部分をEBPMを用いることで解決しようとしているのが、日本の現状だと思います。

-まずは、振り返りと反省に使っていこうということですね。ちょっとだけネガティブな使われかたですね(笑)。

杉谷:おっしゃる通り、振り返ることはなかなか大変ですからね(笑)。政策結果を振り返ることで、責任問題にも発展することも十分考えられますから。日本の場合は組織の権力構造が硬直的で、上にいる人の鶴の一声で決まることが多いと言われています。なので、かつて偉い人が決めたことを、「これダメだったんじゃないか」となかなか言いにくい空気があります。官僚組織とかだと、そういった傾向は特に強いとされているんです。こういった状況を「Eraihito(偉い人)Based Policy MakingでEBPMなんじゃないか?」なんて揶揄する人もいましたね(苦笑)。

-「偉い人」をベースにした政策(苦笑)。

杉谷:ただ、こういう状況はEBPM先進国であるアメリカ・イギリスでもある程度は当てはまるようです。海外でも色んな失敗例が数多く論文になっていますし、いわゆる「偉い人」が無茶苦茶やったせいで台無しになった、みたいな話が少なくありません。なので、どうやったら偉い人を丸め込めるのか、ということについて真面目に論じている人もいます(笑)。こういった試みも成功ばかりではないのですが、EBPMは、言うなれば、こうしたエラーを繰り返しながら、うまくいったものを上手に取り入れていくことで、段々と最適化していくものだと考えていただいた方がいいと思います。この意味で、EBPMはひょっとしたら「Error Based Policy Making」の側面も併せ持つと言ってもいいかもしれませんね。失敗は必ずしも悪いことばかりじゃないんです。それからうまく教訓を導きだせれば、それが次の糧になりますから。

-エラーをきちんと認識できるだけでも良いかもしれませんよね。これからの日本の展望についてはどうですか?

杉谷:2018年からEBPMの試行的検証が始まりましたが、現在進行形で行政仕分けの発展形として行政事業レビューという仕組みが進められています。多くの人は知らないと思いますが、実は事業仕分けって、細かい中身や、やり方こそ変わっていますが、大枠では続いているんですよね。この行政事業レビューは、EBPMに移行するために抜本的な改革として位置付けられていて、動向によって変化する可能性もありますが、来年度〜再来年度から政策評価の仕組みが大きく変わるんじゃないかと言われていて、私も注目しています。

杉谷:非常に短期間でEBPMに注目が集まって実際に変化を推進しているという点においては、希望を持っています。

-確かにスピード感ありますね。

杉谷:一方、EBPMへ移行すると言っても、今まで取り組んできた政策評価とほとんど変わらないというのが課題です。ちょっと専門的ですが、ロジックモデルを用いたEBPMへと移行するというのがあります。ロジックモデルというのは、下の図みたいな感じのものを言います。こういう風に、インプットから最後のインパクトに至るまでを一連の流れにして可視化したものが、ロジックモデルと呼ばれます。統計とか専門的な知識がなくても作成できるので、政府だけでなく自治体など、幅広いセクターで活用されています。そういったところでは、これを使うのが、EBPMだとされているわけですね。ただ、こういう方法論的な厳密さを欠いたものを「エビデンス」と呼んでいいかは、議論の余地があります。たとえば、データサイエンスや統計学に長けた研究者からすると、これを「エビデンス」と呼ぶのは、悪い冗談にしか聞こえないでしょう。ロジックモデルなんて単なる誤魔化し、思いつきに過ぎない、という批判も根強いですし、実際、ダメなロジックモデルもたくさんあります。

(出典:内閣官房HP

-なるほど。

杉谷:もう一つ気をつけるべきだと思うのは、EBPMへの期待が高まっているのはいいことですが、気をつけないとやはり今までと同じく形骸化してしまう点かと思いますね。ロジックモデルの作成も、別にEBPMというタームが流行る前から知られていました。この意味で、ロジックモデルだけがEBPMの全てだと言い切ってしまうのには、慎重になった方がいいんですね。気を付けないと、「新しい酒を古い革袋に盛る」というかたちになってしまいますから。

エビデンスに基づくために生きているわけではない。

-ものすごく素人の意見で申し訳ないのですが、エビデンスやデータで政策が決まっていくことに恐怖みたいなものも拭えずあって…。

杉谷:その気持ちも分かります。ここでは、行政学で極めてよく知られた概念である、「政治行政二分論」から考えてみましょう。これはシンプルに言うと政治と行政は分けて考えようということです。政治の側で民主的な討議・討論を経て目標を決めます。これを受けて、行政が合理的に目標を達成する。EBPMというのは、主にこの行政側の話なんですね。

-あぁ。目的をなるべくスムーズに達成するためのEBPMだということですね。

杉谷:その通りです。こうした目的と手段の関係で注意しておきたいのは、それらの関係がひっくり返っちゃうことですね。つまり、私たちはEBPMを達成するために生きているわけではないということです。政治や政策というのは、非常に多様な立場を持った個人が集まって決定していますよね。政策は皆の生活にかかわることなので、なるべくエビデンスに基づいて決めてほしい、と多くの人が思っているでしょうが、それだけで決められるテーマばかりではないのが政策の難しいところです。例えば、「日本の家族観を変えるべきなのか」「憲法を変えるべきなのか」といったイシューについて、エビデンスだけで決めていいのかというと、私はそう考えていません。こういったテーマはつまるところ、私たちはどういった社会を理想とするのかという、価値観に深くかかわるテーマだからです。立場や価値観という非常に人間臭いものを無視してエビデンスだけで政策を進めるのは、適切なことではないと思いますね。

-ちょっと安心しました。

杉谷:ただ、価値観をめぐる対立は調停が難しく、しばしば泥沼に陥るのも事実です。なので、研究者の中には、そもそも現在の民主主義システムが不完全なので、政治目標も含めてビッグデータを用いて完全自動化するべきという極論を唱える方もいらっしゃいます。政治にまつわる全てを完全自動化することがEBPMの究極ではないかと。

-行政側だけでなく、政治側もエビデンスとデータで決定してしまえと。

杉谷:そう。全てエビデンスとデータに基づいて政策決定される世界です。こういった極論が出てこざるをえないほど現状が酷いというのもわかりますし、議論を活性させるためには有益だと思いますが、本当にそういう世界でいいのだろうかと思っていますね。

-確かに、ちょっと聞いただけだとディストピア感ありますよね。

杉谷:そうした究極の社会を想像するとEBPMの本質が見えてくると思います。少し話がずれるように聞こえるかもしれませんが、例えば現在の日本における民主主義や政治を取り巻く状態って、「ニヒリズム」と呼べるような空気に支配されているような気がするんですね。

EBPMの本質は、哲学的な問いにある。

-ニヒリズム?

杉谷:保守派・リベラル派…対立こそありますが、社会へのコミットが強いという一点は両者に共通して素晴らしいことだと思うんです。問題は、近年の投票率を見ても分かる通り、社会の大多数はそもそも政治的な議論にまるでコミットしていないということです。この問題の深層には、「どうでもいい」「どうせ変わらない」と興味を失ったような状態…つまり非常にニヒリスティックな空気感があるのではないかと考えています。

-あぁ。なるほど。

杉谷:究極のEBPMの果てに完全自動化社会が訪れたのなら、このニヒリズムを促進させるように思います。自動化社会の中で生きている意味みたいなものを見いだせなくなるかもしれないですよね。つまり、EBPMを社会実装する際の大きな問題は、「私たちの生きる意味とはなんだろう」という哲学的な問いと非常に関連があるのではないかと思うんです。

-だからこそ「政治哲学」が重要になるんですね。

杉谷:えぇ。EBPMに関わるからには、エビデンスが持つ正しさとセットで哲学的な論点についても考えてないといけないと思います。エビデンスというのは、ある種の暴力にもなり得るので。

-どういうことですか?

杉谷:繊細に話すべき例だと思いますが、パンデミック禍において外出制限や飲食店の営業自粛がありましたよね。その判断自体は、当時のデータやエビデンスと照らしても私も正しかったと思っています。その前提に立ちつつ、ここでは違ったことを考えてみたいのです。

-はい。

杉谷:例えば、当時飲食店の運営をできないことで生きがいを奪われた人がいたかもしれません。これは視点を変えると「生きがい」「生きている意味」と呼ばれるものをエビデンスが奪ったとも言えるかもしれませんよね。

-あぁ。エビデンスという正しさで、生きがいを奪っていいのかと。

杉谷:EBPMは実のところ、こういった「命」と「生きるための意味」を天秤にかける怖さを内包したものなのではないかと考えています。生命が最優先であることに異論がある人は少ないと思いますが、さりとて『生きがい』みたいなものが全く大事じゃないという人もそれ程多くない筈です。エビデンスをきちんと活用するためにも、こうした価値観をきちんと擦り合わせていかないと、ある種の暴力になり得てしまう。そもそも、政策をつくって実施していくプロセスに乗せた時点で、エビデンスは政治的メッセージにもなりうるんです。だからこそ、前提である価値観についても議論していくことがすごく大事なんですよね、本来は。

-全員が納得できる結論に至らずとも、議論をすることは大事かもしれないですね。

杉谷:パンデミックのピークが過ぎた時であっても、こういった議論や反省が建設的に起きなかったのは少し怖いことではないかと思います。今はまた感染拡大しているのでそれどころではないかもしれませんが、専門知と社会のすり合わせにおいて、こういった側面を取り入れないと、誰かの生きがいを奪って、「貴方の生きがいや使命は『不要不急』なので優先順位を下げます」という無神経なメッセージを発し続ける社会になってしまいます。そもそも、一体何の権限があって、「貴方の生きがいは緊急時には優先順位が低い」と決定できるのでしょうか。本来、そんなことは誰にも決められないハズです。一番大事な命を守るために、個々人の自由や日々の仕事を制限する、そのために政府が誠実に説明して人々の納得を得ていく必要がある、というのは確かにその通りです。ですが、今回の問題は、それ以外の何か重要なことも提起している気がするんですよね。たとえ、なるべく価値観を除去して、エビデンスをベースに正しい/間違っているという単純な議論に集中したとしても、行き詰まってしまうことが多いのではないかと思います。

-本質的な議論がなされていないことを危惧されているんですね。

2023年2月9日にリリースした最新の共著ネガティヴ・ケイパビリティで生きる ―答えを急がず立ち止まる力(さくら舎)」。本メディアでも取り上げている哲学者の谷川嘉浩氏に加えて、朱喜哲氏と杉谷氏の3者の対話を通して社会を描く1冊だ。

私たちは政治をどう考えるべきなのか。

-先ほど少しニヒリズムとおっしゃっていたのが気になっているのですが、EBPMも含めて日本は政治へのコミットの薄い国とお考えですか?

杉谷:日本人の多くの政治に対する関心が薄いのは危惧すべきことですが、私は大前提としてみんなが政治に興味を持つことが、必ずしも良い結果になるとは考えていないんですよ。

-それはなぜですか?

杉谷:例えば、戦前の投票率は時に8割を超えることもあったのをご存知ですか?

-そうなんですか!

杉谷:それだけの投票率があったにも関わらず、日本は結局、破滅の道を選んでしまった。もちろん、当時は女性に選挙権がありませんでしたし、いろいろな制度が違います。戦争についても、必ずしも選挙結果だけが原因ではありません。ですが、これは考えさせられるデータですよね。

-そうですね。

杉谷:投票率を上げないといけない、皆が政治に参加しないといけない、という考えの背景には、「従順で権力や既存の情報だけで判断するだけでなく、個々人で学び考え、近代的な主体になりましょう。」というテーゼがあると思います。これは民主主義を成立させるための鉄則です。

-自分自身が主人公として参加しようということですね。

杉谷:ですが、私はこのテーゼにすごく疑問を持っています。近刊の『ネガティブ・ケイパビリティで生きる』でも話しましたが、いわゆる「自分の頭で考える」、「権威におもねらない」という理想的な近代的主体が、結局は荒唐無稽な陰謀論にハマってしまうことって、珍しくないんですよね。彼らの語り口は、「メディアや学者の言ってることを鵜吞みにせず、自分で考える」というもので、民主主義が想定する理想的な市民像そのものと言っても過言じゃありません。こういう時代においては、「自分の頭で考えられる、立派な市民になりましょう」というメッセージを真に受けすぎないことも必要なのかもしれない。そして、多数決の結果を許容する必要があるのは、民主主義の宿命でもあるとも思います。

-結果的に間違っていたとしても、大多数がそれを選ぶこともありますもんね。

杉谷:それでも私は、なるべく多くの人が政治に参加すべきだし、選挙に行くべきだと考えています。ここでも気をつけておきたいのは、政治に関心を持って選挙に行くのは、いい政策を生み出すためだけではないということです。むしろ望んだ成果や結果だけを求めて行くべきではない。私たちは良い政策を生み出すために生きているわけではないのですから。そして、選挙は必ずしも、分かりやすい結果につながるものではありませんし、アウトプットや成果だけにフォーカスすると、自分の願望が叶わないことに対して絶望もしますよね。選挙のたびに、「日本はもうダメだ」と慨嘆する人を見かけますが、これはその絶望の表れです。

-望んで叶わないとそれこそニヒリズムに陥ってしまうかもしれませんよね。

杉谷:民主主義というのは、選挙に行ったりみんなで色々と意見を言い合ったり、時には喧嘩をしたりしつつ、そのプロセス自体に価値を求めるべきものではないかと思っています。誰しもが政治や政策や公共に参加して、議論するその道程こそが大事だと思っています。参加さえしていれば、たとえ望まなかった酷い結果だとしても、少なくとも起きたことをきちんと振り返られれば、反省もできますし、次に生かせると思っています。もちろん、きちんとしたエビデンスに基づいて、合理的に政策を決めるというのも大事なんですが、それだけではないということですね。

-確かに短絡的に結果を求めると辛いですよね。

杉谷:政治や政策は、根源的になんのためにあるのか、この社会と私たちとはなんなのか。個々人の生きがいとどう折り合いをつけるか。こういった、置き去りにされてきた問いを今一度考える、そのきっかけとしてEBPMを捉えていただけるといいのかもしれませんね。

-EBPMは、大多数が間違った判断をしないためにも、とても有益なのかもしれませんね。

杉谷:ある方がかつて私に、「政策とは他者への配慮である」と語ってくださったことがありました。この見方は、どこの誰が、どういう風に困っているかを理解して、適切に財やサービスの分配を行うという政策の性質を見事に言い当てたものです。こうした配慮には、もちろん科学的な根拠があった方がいい。ですが、それと同じかそれ以上に、どういった社会が望ましいのか、その人にとってどういった状態であることが幸せなのか、といった価値判断がなければ配慮は不可能です。結局のところ、エビデンスで判断すべき領域と、それだけではダメな領域が政策にはあって、それらを見極めて適切にEBPMを実施していく必要があるということだと思います。もちろん、口で言うほど、簡単じゃないですけどね。

これからの世界で失いたくないもの。

-では、最後の質問です。杉谷さんがこの先の世界で失いたくないものはなんですか?

杉谷:なんでしょう…行きつけのお店かな(笑)。盛岡に赴任して2年目なんですが、2軒ほど行きつけのバーが出来ました。そういうところで、店員さんやたまたま居合わせた方と話すのがすごく好きなんです。そういう行きつけのお店で息抜きをしたり楽しむのは、私自身の生きる意味なのかもしれません。

Less is More.

政治は、どうも複雑でよく分からない。選挙に行ったとて何も変わらないというようなニヒリズムに陥っている方も多いと思う。
杉谷氏がおっしゃるように、民主主義の過程にこそ価値があると考え、異なる立場であっても意見を交わしながら対話していくことを楽しめたらいいなと思った。
EBPMをきっかけに、もっとポジティブな気持ちで公共に参加できるといいのかもしれない。

なんと杉谷氏は、宇宙開発の書籍にも携わっている。「宇宙開発をみんなで議論しよう 呉羽 真・伊勢田哲治 編(名古屋大学出版会)」

(おわり)

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