【前編】信仰と想像力。または、ノスタルジーを反芻すること。柴田勝家氏×谷川嘉浩氏対談
哲学者の谷川嘉浩氏とSF作家の柴田勝家氏の対談を前後編でお届けする。
昨年、示し合わせたかのように、お二人は「信仰」そして「想像力」をテーマにそれぞれの著作をリリース。なぜ今、信仰と想像力に注目しているのか。ぜひ、二人の作品にも触れながら楽しんでいただきたい。
二人の出会いについて。
柴田:お会いしたのは、2年前にLess is More. by infoMartのオフ会でお会いしたのが初めてでしたよね。
谷川:そのとき、柴田さんにサインをもらったんですよね。日付も書いてもらったので、何月何日かもわかります(笑)。
柴田:谷川さん、ワシの『アメリカンブッダ』の感想をウェブメディアに書いていましたよね。すごく印象に残っていましたので、あの方か!と驚きました。当時感想を書いていただいてありがたかったです。
谷川:「私たちは、いつでも過去と出会いなおす」という記事ですね。最初に柴田さんの本に出合ったのは、デビュー作の『ニルヤの島』の文庫版です。その帯を、ゲームクリエイターの小島秀夫さんが書かれていたのをきっかけに手に取りました。買ったのは2016年の9月。それ以来、柴田さんの作品は大体読んでいます。
柴田:それ、本が出た直後ですね(笑)。谷川さんの著作「スマホ時代の哲学」もすごく楽しく読ませていただきました。谷川さん自身と未知を探検していく感覚があって、谷川さんと「だよね!」って相槌打ちながら読み進める感覚になりましたよ。
-「だよね!」めっちゃ強く言いましたね(笑)。
谷川:結構強めの「だよね!」ありがとうございます(笑)。
柴田:『スマホ時代の哲学』に孤独になって自分と対話する時間が大切だと描かれていますよね。ワシ自身も立ち位置が定まらない人間で、文壇みたいな場所にいるわけでもないし、SFやミステリーなどのジャンル小説も書いていていますが、そことも距離がある。どこにでもいるけど、どこにもいないという生き方を実践してきたんですね。それは、すごく不安なことでもあるんです。この本に出会って、孤独を肯定してくれたようですごく嬉しかったです。
谷川:ありがとうございます。それって、民俗学者・文学人類学者のスタンスですよね。共同体に参加するけど、完全にその一員になるわけではない。そこに遊びに行くけど引いてみるところもある。そういうスタンスが好きなんですよ。
柴田:ぜひ、同じような悩みを持っている方は、読んでいただければと(笑)。
谷川:宣伝ありがとうございます(笑)。私も、哲学者でありながら芸大でデザインを教えていたり、すごく変な立ち位置なので、そういう所在なさは、私自身も感じています。全然違う領域ですが、似たスタンスなのかもしれないですね。
なぜ今「信仰と想像力」なのか。
-当メディアにも縁のあるお二方の昨年リリースした作品に共通して「信仰」「想像力」というキーワードが掲げられていますよね。そのシンクロニシティを発端に、今回対談を設定するに至りました。
谷川:私も、柴田さんの最新作『走馬灯のセトリは考えておいて』の帯をみて、自分の仕事とのキーワードの重なり方に驚きました。
-どうして今、信仰と想像力ってキーワードをお二方が挙げてるのかなと。
谷川:たいていの学問って、社会の「世俗化」を前提にしているんですね。世俗化は、宗教が私的な問題になって公共領域からは退いていくということです。でも、アメリカでは2022年の選挙の中心的な論題になるくらい、「中絶禁止」を巡る問題が苛烈化していますが、この問題の背後にはキリスト教保守がいますし、宗教宗派を問わずローマ教皇のメッセージは無視できない。「あれ?本当に世俗化してんの?」って話ですよね。こういった状況を、「ポスト世俗化」と呼ぶことがあります。他方で、かつて教会や寺社を中心に育まれていた居場所やコミュニティが形を変えていることも確かです。こういう論点がずっと気になっていて、近代アメリカを舞台に『信仰と想像力の哲学』という本を書いたんですよ。
柴田:ワシの方は、大学で民俗学、その中でも民間信仰を専攻していたくらいなので、ずっと信仰や宗教をテーマに描き続けています。
谷川:帝釈天についての論文を書いてましたよね!ウェブで閲覧できたので読みました!
柴田:えぇ!?そんなところまでチェックしてくれているんですか(笑)!
全員:(笑)。
柴田:寺院や神社で教えるような教派宗教ではなく、民衆が自分達で選び取った信仰の研究をしていましたね。市井の人々に寄せた宗教にすごく興味があるんですよ。
谷川:信仰って土地ごとの習慣に合わせてローカライズされるじゃないですか。中央に統制される信仰ではなくて、差異や揺らぎを許容した信仰。民間信仰はその最たるものですよね。その民衆なりの「寄せ方」に、物語の種があるような感じがします。
柴田:そうですね。ただ、民俗学の枠だと、現存の民間信仰を研究しますので、未来のことを研究しようと思うと想像力が不可欠です。そこで、SF作品として現代を通して想像できる「未来の信仰」について作品にしてきました。
谷川:柴田さんの著作をまとめて再読して気づいたことがいくつかあります。何度も同じテーマやフレーズを取り上げることがありますよね。例えば、「ライフログから人格を再現する」とか「誰かを看取る」というモチーフは、作品をまたいで何度も登場しますね。あと、「脳死状態の人を短い間しゃべらせるテクノロジー」が作品をまたいで登場することもあるし、些細なフレーズが同じ作品の中でキャラクターをまたいで繰り返されることもある。柴田さんの作品には、設定やモチーフのレベルでも、セリフのレベルでも反復と変奏があると思いました。そういう断片が、ミームのように散りばめられている。
柴田:同じテーマを描き続けていることについては、意識してそうしていますね。ワシのテーマはもしかしたら、今まで一貫して「信仰と想像力」なのかもしれませんね。
谷川:でも、テーマやフレーズが同じでも、世界観や設定、キャラクターの性格などによってオチや結論が毎回違っていますよね。結論ありきで物語を書いているわけではないですよね?
柴田:舞台設定は同じであっても、別の状況や別の登場人物だったらどういう感じになるのだろうと、シミュレーション的に作っていますね。こういうキャラクターだったらこういう結論に至るだろうという感じで書いています。
谷川:それはわかります。私もプロットは用意しますが、結論ありきではありません。書いているうちに、用意した言葉や概念、題材の方が、私の考えを引っ張っていく感覚になります。だから、似た概念やテーマを扱っているつもりでも、ちょっと初期設定を変えれば辿り着くところは変わります。柴田さんの感覚に近いのかもしれません。
柴田:「生と死」のような重いテーマに向き合う際に、キャラクターがそのテーマに対してどう思うか、自分でも気づいていなかった結論に気づかせてくれることがあるんですよね。
谷川:デビュー作『ニルヤの島』と最新作『走馬灯のセトリは考えておいて』でも類似のテーマを扱いながら、全く違う結論に至っているのは印象的です。
-ざっくりと…どちらの作品も「ライフログが当たり前の世界で、過去の記憶とデータでシミュレーションした記憶が本当に同じものなのか」というテーマでしたね。
谷川:『ニルヤの島』では、「データで再現された魂は偽物にすぎない」と語る人物が出てくるのに対して、今回はそういう割り切った語りが出てきませんでした。『走馬灯のセトリ』が面白いのは、一旦「本物」と「偽物」という二項対立を登場させたうえで、どちらかに軍配を上げないということでした。「本物」と言えるものが不可能な状況設定にしてみたり、何が偽物と言えるのかわからない形にしてみたり。この変化が興味深かったです。
柴田:最新作で描いた答えは、デビューの頃には、至れなかった結論だと思いますね。デビュー当時は「やっぱり本物じゃないとダメじゃん!」と思っていました。テーマを何度も繰り返して作品にするうちに「本物ってなんだ?」と変わったんですよね。本物とされていたものでも、誰かから見たらそれは偽物かもしれない。逆に外から見ると明らかに偽物でも、個人が本物だと信じるものもある。じゃあ、偽物も本物も差がないのではないかという感じですね。
谷川:攻殻機動隊やフィリップ・K・ディックをはじめとして、SFにとって「本物/偽物」は昔ながらのモチーフと言えるかもしれません。「これが偽物か本物か」ということが問題になるのは、産業や技術の変化によってリアリティの軸が変わったことの現れですね。こういう古典的な問題に対して、「偽物でいい」とか「偽物がいいんだ」って開き直る語り口がよくありますが、『走馬灯のセトリ』は、そういう落とし所でもなかったのが新鮮でした。「本物/偽物」という二項対立に向き合った上で、その対比をうやむやにしていますね。
柴田:デビュー時は「本物の自分はどこかにある」って感覚があったんですよね。絶対に消えることのない本物がどこかにあって、それを自分が見つけられていないだけだって考えていました。それが今は「見つからないだろう」って感覚なんですよね。
谷川:なるほど。『走馬灯のセトリ』の表題作とか、「クランツマンの秘仏」「絶滅の作法」は、「本物/偽物」のどちらでもあり、どちらでもないというように、二項対立をぼやかした状態を生きることが、主人公たちにとって、自分や周囲の存在を尊重し、生を肯定する爽やかな倫理になっていて、そこに新しさを感じました。「本物/偽物」が決定できないという結論自体はディック自身の小説にもあるものですが、『走馬灯のセトリ』は、その曖昧な状態の肯定の仕方が爽やかなんですよ。うやむやなあり方を積極的に選び取っている主人公たちが、何とも言えず、いいんですよね。
柴田:実は、今回の「走馬灯のセトリは考えておいて」は、今までの集大成として書いているような気がするので、次回作からは、少し違ったテーマを扱おうかなとも思っていたんですよ(笑)。
「信仰」もしくは「宗教」とは。
-お二方は「信仰」もしくは「宗教」ってキーワードをどんな意図で使っているんですか?
谷川:私の研究するジョン・デューイという哲学者は、想像力を色々な可能性を捉える能力と捉えているのですが、そうやって想像力が捉えた「まだ現実化されていない可能性を痛切に感じ、その実現に向けて奮起する」という姿勢の中に、「信仰」があるのではないかと考えました。つまり、「なんでこうなってないんだろう」「こうだったらいいのに」という感覚に真剣に向き合って、その可能性のために自分の行動や選択を差し出すということですね。この意味での「信仰」は、別に宗教と関係がありません。こんな風に、ある種の理想や可能性に賭けたいと思って献身することの中に、広い意味での「信仰」を見出すわけです。この感性、私は割と好きです。
柴田:ワシの場合、外側から様々な信仰や宗教をちょっと引いてみていますね。参与観察のような距離感と言えるかもしれません。最新作の解説で届木ウカさんが「信仰の構造を把握した上でその構造ごと愛でる」と評してくれて、その一節のおかげで気づかせられました。例えば、アイドルの推し活なんかは、一人のファンとして熱狂することもありますが、自分自身はどこか引いている、離れているようにも思います。
谷川:冒頭にも話した、民俗学者や文化人類学者ならではの視点ですね。そのスタンスはよくわかります。
柴田:谷川さんのスタンスも近いものがありますよね。「スマホ時代の哲学」でも、推し活やSNSでの炎上に熱狂するだけでなく、一歩離れて孤独でいる時間を持つことが大事だというスタンスを感じました。
谷川:距離をとるとはいえ、柴田さんのイメージする「信仰」は熱狂を伴っているんですか?
柴田:あぁ。それはそうかもしれません。「薄い信仰心」って誰にでもあるじゃないですか。
谷川:初詣やクリスマスなんかも、「薄い信仰心」と呼べますもんね。
柴田:そうそう。日常の様々なところに薄い信仰というのは紛れていると思うんです。ワシは、誰かが熱狂していて初めて信仰していると捉えることができる。そういった非日常的な熱狂を信仰として扱っているのかもしれませんね。
谷川:『走馬灯のセトリ』の表題作でも、アイドルのライブに注目して、スペクタクルから来る熱狂が題材になっていますね。
柴田:大学の研究で祝祭論を扱ったこともあるので、作品にも影響があるのかもしれませんね。年に一度のお祭りのような、決められた時間・瞬間・場所に作られる非日常に接続することで、日常を取り戻す。これは日本の民俗学における基本的な考え方だと思います。
谷川:ケとハレの「ハレ」が熱狂に相当するわけですね。ただ、現代社会の「祝祭」ってもっと意味が目減りしている気がするんです。例えば、TwitterのトレンドやSpotifyの急上昇チャートなんかは、ちょっとした「祭り」です。地域の祭りや初詣、あるいは追悼のような出来事も、そういう「小さなお祭り」の一つに回収されているところがあるように思います。
柴田:現代では、祝祭的なものがすごく小分けにされてしまっていますよね。
谷川:そうですよね。祝祭が「SNSに投稿できること」程度の意味に目減りしていて、そういう小さなカーニヴァルが絶え間なく続いている。猫がコップを倒したら、それだけでちょっとした「祭り」になるかもしれない。これは、ハレが日常を覆ってしまって、ケがなくなったともいえますね。
柴田:ワシはある程度の距離をとっていますが、多くの人が日々誰かのお祭りに参加していますよね。終わらないお祭りが続いている。
谷川:祝祭が日々起きて、日常がずっとハレになってしまったことに私は問題を感じているんです。ずっと熱狂の中で揺るがされ続けていて、そのハイテンションぶりに燃え尽きたり、自分を見失ったりしかねない。ある種の冷静さを持つためには、熱狂モードとは違う別の「信仰」が必要なんじゃないかなと。
柴田:谷川さんは、「孤独」を持つことこそが、そういった状態を乗り越えるキーワードとして書かれていますね。
谷川:そうですね。柴田さんの作品にも、ハレの全面化に抗う姿勢を感じます。具体的には、登場人物の日常のちょっとしたエピソードや、住んでいる場所の空気感を感じさせるシーンです。そういう祝祭になりきらない描写を意図的に描いているから、柴田さんの作品には、ちゃんと「ケ」がある感じがします。
柴田:そうしないと緩急がない作品になってしまいますよね。同時に難しいのが、現代の読者はずっと何かが起きているような作品を求めていて、みんな即時性のあるものを見たい聴きたいと思っている。ワシは反乱していきたいので、作品を作るときは緩急は意識していますよ。
谷川:ドラマを求める読者が現代は多いけど、盛り上がりに回収できない断片が実は大事だということですね。普段小説とかドラマを見ていても、意外と緩急の「緩」の部分、つまり日常的な描写が印象に残ったりしますよね。
柴田:ワシもそうですね。
谷川:現実においてもそうですよね。意外とイベント的な急の部分って忘れてしまうもので、ちょっとした別れ際の友人の表情だとか、たまたま立ち寄った場所の記憶だとか、そういう方が思い出として残っていたりします。
柴田:何気ない瞬間の方が覚えていたりするんですよ。人間てそういうもんだと思うんですよね。家のWi-Fiのモデムを直しているような瞬間をなぜか鮮明に覚えたりしていますよね(笑)。
谷川:めっちゃわかる…(笑)!
柴田:だからこそ、作品の中にもそういう瞬間を入れておかないといけないと思うんですよね。
谷川:そういう瞬間はありますよね。そこに何があるのかとか、何が引っ掛かって覚えているのかわからない、「自分自身でも解釈しきれない記憶」ということですよね。『走馬灯のセトリ』にも、特に何でもない仕草とか、父親の青春時代がどうだとか、そういう日常の断片が、作品にきちんと挟み込まれています。
柴田:記憶からこぼれ落ちてしまいそうなものをちゃんと残したいのかもしれませんね。そういうお話をお聞きすると、次回作にもそういうシーンを活かしていきたいと思いました(笑)。意識したら出てこなくなるかもしれませんので、未来の自分に任せますが(笑)。
全員:(笑)。
信仰・宗教をどこに置くか。
谷川:「信仰」という言葉に、「揺るがないもの」というイメージを抱いていると思います。その意味で、トレンドやバズから成る「小さな祝祭」を日々乗り換えている状況は、揺らがないもの(=信仰)が生まれづらい構造を持っていると言えるかもしれません。もちろん、信じている内容が絶対化されてしまうと、ある種カルト化の危険があるので注意しないといけないんですが、それにしても「簡単に祭りを乗り換えすぎでは?」と思ってしまいます。
-あぁなるほど。日々色々な宗教のお祭りに顔を出しているようなものですからね。
谷川:それに、SNSでも日常会話でも、他人を意識したおおげさな言葉が多いですね。「最高」「尊い」「大草原」「クソデカ感情」「うれしすぎて死ねる」とか。こういう言葉遣いが流通する中では、この対談で語っている「孤独」とか「信仰」は、そもそも成立しにくいのかなと。
柴田:「忙しなく日々多種多様な情報に接続する人」と「一つのものを頑なに信じる人」という二極化が起きているようにも思いますね。本当は極端になることなく、バランスを取るのが一番いいと思いますが、なかなか難しい。そういったバランスの中で信仰・宗教をどこに置くか…日常生活なのか、精神的な世界なのか…「重し」としての信仰・宗教をどこに置くかでバランスが取れるのかもしれませんよね。
谷川:その通りだと思います。信仰は、私たちをつなぎとめる「重し」のような役割を果たしているところがある。アウシュヴィッツで亡くなったエティ・ヒレスムという方の『エロスと神と収容所:エティの日記』という本があって、エティさんは日記の中で自分を直接助けてくれはしない神に色んな言葉を投げかけています。つまり、彼女にとっての神は、想像力が捉えた可能性を試行錯誤しながら育てていく自分を見守ると同時に相対化してくれる、最高の対話相手なんですよね。この信仰が、眼をそむけたくなる現実に自分をつなぎとめてくれている。
柴田:世界との接続の仕方を模索し続けるという信仰のあり方は興味深いですね。
(つづく)