価値観の変容と感性の融合。新しい社会のバランス。数学者/音楽家・中島さち子氏インタビュー
今の社会の多くは、基本的には1+1=2という計算を元に成立しているように思う。一方で、形やロジックがなくとも、無条件に心を打つ「音楽」。数学者であり、音楽家でもある中島さち子氏は、この2つのアカウントを同時に持ち、世界を変えようとしている。量子力学や超弦理論など、現代科学の理論を超えるような理論体系が、社会実装の手前まで進んでいる現代において、この一見関係なさそうな音楽と数学を結ぶミッシングリンクのような中島氏に、現代が、どのように見えているのかをお聞きした。
中島氏の大阪・関西万博プロデューサー就任後の貴重なロングインタビューをお届けする。
中島さち子:東京大学理学部数学科卒業。株式会社 steAm 代表、ジャズピアニスト、数学研究者、STEAM教育者。内閣府 STEM Girls Ambassador、2025年の大阪・関西万博テーマ事業プロデューサー。明治大学先端数理科学インスティテュート客員研究員。1996年国際数学オリンピック金メダル獲得。4歳の時からピアノ・作曲を学び、大学入学後ジャズに興味を持ち、2002年よりトリオを中心にライブ活動を開始。現在は音楽・数学・横断型STEAM教育の3軸で国内外で活動。著書に『人生を変える「数学」そして「音楽」』他、CDにピアノトリオ『Rejoice』『希望の花』など。
数学に恋し続ける。
ーそもそも、数学に目覚めたきっかけを教えてください。?
中島:ちっちゃい頃からひとつのことをずーっとやってるのが好きだったみたいなんです。で、本当に数学にハマり始めたのは中学校2~3年の頃でした。作曲するのが好きで、音楽教室に熱心に通っていたんですが、ふと、作る曲がなんか似てきていることに気がついたんですね。ぜんぶ楽しげな曲になってしまって。いまでも変わってないといえば変わってないんですけど(笑)。
-(笑)
中島:これは、なんでだろう?と、当時の自分なりに考えた結果、「人生経験が必要なのではないか」と思い、音楽をいちどスパッとやめてみたんです。
-人生経験のひとつとして、数学をお選びになったんですね。
中島:元々数学の世界って実はむしろ自由で、答えがない世界なのではないか・・・という印象があったのです。考え方は自由だから。小説や人生に近い。そこで、音楽を一度止めて、時間もできたので、数学に深くのめり込み始めたんです。徐々に、ある問を1ヶ月ずっと考え続けたり、過去の人々が発見した公式を自分で一つひとつ独自に証明したり、さらに自分なりの問いや視点を探してみたり。学校で教わる数学とは違い、考え続けていると何かが見えてきたり、角度を変えてみると理解できることがあったり、そのプロセスこそが数学の楽しさなんだと感じました。
ー数字から景色や問いが見える…いわゆるアナスタシア(共感覚)みたいなイメージですか?中島さんって数字だとか数学をどんな風に捉えていらっしゃるんですか?
中島:アナスタシアともちょっと違うかもしれませんが、実は数学者といっても人それぞれで、数字大好きな人もいればぜんぜん数字を使わない数学者もいて、絵とかコンセプトとか哲学みたいな概念的に考える人がいたりするんです。だから数字を使う数学者って、そこまで多くないんですね。私自身は、比較的数字も好きというか、特に素数とか面白いのですごい惹かれてきたほうなんですね。なんかこう、人間と似ているというか。それぞれの数字にも個性がだんだん見えてくるような感覚はありますね。
-素数がお好きという事ですが、素数に惹かれたのはなぜです?
中島:素数とは、1と自分自身以外の正の約数をもたない自然数のことを言います。2、3、5、7、11…などがそうですね。そして、全ての自然数はこの素数を掛け算することで表せます。つまり、素数は掛け算ですべての数字を作り出すためのタネみたいなもの。定義はシンプルでしょう?
-定義自体は、理解できますね。
中島:ただし。素数は無限にあって、とても調和がとれているはずだと言われているんですが、その全貌はまだ解明されていません。素数の現れ方には規則性がなく、素数の正体は実は紐だとか円だとか螺旋だとか運動だとか、数学者によって見解はさまざまです。逆に、だからこそ視点を変えればいろんな個性が見えてくると言うか。定義だけに固執せず、他のものとの関係性の中で魅せる表情やキャラクターに目を向けてみるとより本質に近づけるという話は、人間にもあてはまると思いませんか? よく知っているつもりの相手に対して、「こんな一面もあったんだ」と気づく瞬間って、ありますよね? 素数もそれと似ています。
-そうか、ひとつの素数に対して、数学者によっていくつもの見解を知ると、余計にそう思えるかも知れませんね。
中島:素数の世界ってまだまだわかっていなくって、けっこう知れば知るほど個性を持っている気がするんです。私よりも素数がお好きな先生は「素数さん」と呼ばないと怒る方もいらっしゃるくらいです(笑)。
学校では教わらない数学の魅力。
ーそう聞くと、これまで数学=数字だと思っていたものが、急に概念的なものに思えてきました。身近なところでもπ(円周率)なんて、数字でもなく記号で表されるのも概念的ですよね。
中島:そうですね。円周率は永遠に続く小数なので、記号でしか表せません。ちなみに、分数で表せない数のことを〈無理数〉と言って、さらにどんな n次方程式にあてはめても答えが0にならない無理数のことを〈超越数〉と呼びます。πって非常に平均的で数字の羅列の中にも、なんていうのだろう…調和があるんです。0から9までの数字が同じくらいのバランスで出てくることもわかっていますし、面白い話としては、その何億桁の数字のどこかに必ず自分の8桁の生年月日が現れていたりするんです。
ーえ!そんなことがあるんですね。すごい不思議…。世間では圧倒的に、数字は何かを計算するためのものだと思われていますが、お話を伺っていると数学・数字って、言語の一つにも感じます。
中島:数学自体がちょっと言語っぽいところはあります。ある種定義があり、文法があり、そこによって表される世界があるとは思います。どちらにも、ある種のルールと、それを破壊していくエネルギーとが内在していますし。既存の文法を壊すことで若者言葉が誕生するように、数学の世界でも、固定概念にとらわれない哲学的な発想が生まれたりします。ですが、「数字」となると、もう少し哲学的なんですよね。人によっては「1」は人間が作ったって考えた人もいたり、「1」っていう概念そのものはビッグバンより前にあったと考える方とかもいます。なので、この世界とはなんぞやとか神とはなんぞやとかいう答えのないものなんです。
ーいわゆる算数とか学校で習う範囲の数字の概念を離れたときに、全然みんなが思っている数字とは違う世界が広がっているんですね。
中島:そうなんです。本当は、算数や数学の時間に習っていることの中にも発見はあるんです。でも、とても気がつきにくい。例えば中学校で習う〈座標平面〉の問題。これを解くことは、X軸とY軸からなる平面上の点のひとつひとつに、数字という名前を与えてあげること…と気がつき、捉えることができるのは、発見であり喜びなんです。それに気がつくために、数学でも感性や想像力はとても大事なんですね。今はどうしてもそういうことに気がつくことよりも、テストの解を求めることが優先されてしまいますよね。
-それはすごくもったいないことですよね。
中島:例えば、直角三角形の3辺の長さを求める〈三平方の定理〉ってありますよね。学校の試験で出るのは、実際は地球上だったら曲がってるし、距離だってほんとはちょっとうねってるのかもしれない。って思うと定理が成り立つ世界ってのはある意味で頭の中だけのイデアの世界…理想の世界だけなんです。そもそもまるい地球上では、辺が曲がったり、うねったりしているかもしれませんから、実際は三平方の定理自体が成り立たない可能性もあるんじゃないか?って考えることが大事なんですよ。
-あぁ想像だけで成り立ってるものが、そもそも正しいのか?っていうことですね。
中島:ある種のクリティカルシンキングを徹底的にすることで、逆に本質があぶりだされるというか、数学でも感性は大事なんですけど、感性だけに固執していると、時に先入観が入って見えなくなることもあるんですね。数学ってわりとそういうところがあるので、論理と感性を行ったり来たりする内に、新しい感覚が開いたりするようなイメージがあります。
「1+1=2」だとは限らない時代のはじまり。
ー先ほどの〈三平方の定理〉のお話ではないんですが、机上の論理だった数学を社会実装したときに、歪みが生じることはないのでしょうか?
中島:何事も禅問答みたいなもので。正しいことは正しくないというか、1は1であって1でないみたいなことって、数学の世界にもたくさんあるんです。「数学は完璧なのか?」という問いを証明できない、自己矛盾のようなものを抱えていたりもします。今数学っていうのはイエスかノーって、真か擬という基準で進んでいるんですが、真と擬の間みたいなものを許した瞬間にほとんどの証明ができなくなるんですね。だからこそ、社会実装するときには、数学をただ使うんじゃなくてそれがやっぱりどういう考え方からそれが生まれてるかっていうことを描くことが大事だと思うんです。
ー数字だけでなく、思想や思いから知る事で、社会実装した際の歪みを調整していけるということですね。
中島:たとえば、AIは優秀だと言われているけれど、AIが導き出す答えは仮定と、データと、アルゴリズムから生まれるのであって、データにバイアスがあるかもしれませんし、アルゴリズムも完璧なものはない。AIが全てが正しいとは限らないというのは大前提です。だからこそ、背景の構造を知り想像する力も大事になる。数学も同じくですね。
ーさまざまな分野で数学は活用されています。
中島:物事や現象を解明するためにつくられた数式、〈数理モデル〉は、社会でも活用されていますね。未来予測にも使われていますし、自然界にある一見数学とは関係なさそうなものも、これで解き明かすことができたりします。ブロッコリーやシダの葉っぱみたいに、全体をマクロで見た時と小分けにしたものをミクロで見た時の姿が似ている〈フラクタル〉の形がなぜできるのか?とか。または、キリンの模様はどういう法則でできているのか?とか。数理モデルを使えば、意外にシンプルなロジックを元にして、とても複雑な性質を生み出していることが分かってきます。もちろん、何事も完全に数理モデルで解けるかというと、そうではなくて。常識が間違っていることも、山ほどあります。
ー今の時代、価値観が激変して、今まで“トンデモ”と思われてきたことが正しくなる瞬間も多いように感じます。
中島:新しいイノベーションが起こるときには絶対"トンデモ"ですよ。実は、数学の役割ってどちらかというと〈価値観の変換〉を与えることなんですよ。私は、数学は「1+1=2だとは限らない」ということを伝える学問だと思っています。数学を学ぶ最大の意味は、「本当にそうだろうか?」「そもそもどういうことなんだ?」「こっちの視点から考えたらどうだろう?」と考えていくことの自由性だと思うんです。
-あぁ。何か答えを導くのではなく、価値観を疑うための数学。すごく面白いですね。
中島:それは、今の時代にとても大事なことですよね。実は数学や科学、テクノロジーは、価値観を変えるところが一番面白いところで、いわゆるイノベーションというのは、そういった価値観の変容と感性の融合でしか爆発は起こらないと思っています。
-どういうことですか。
中島:例えば、ピカソのような画家が生まれたのって、20世紀だからこそだと思うんです。当時、量子論や相対性理論が登場し、空間や距離…それまで信じられてきたことが崩れた。そういう価値観の変容が、画家にも影響を与えて、いわゆるキュビズムが生まれたんじゃないかと思うんですね。
-あぁキュビズムは、まさに数学・科学と感性がぶつかって生まれた、イノベーションとも呼べますね。
数学と音楽の共通点。
ー〈感性〉という言葉が出ましたが、中島さんは音楽家でもいらっしゃいます。ご自身にとって音楽とは?
中島:難しいですね(笑)。なくてはならないものなんですけど。なんでしょうね。なんかやっぱり、意味が消えるっていうか、言葉の世界も数学の世界も好きなんですけど、音楽の方が、より身体性に近いものですね。良い演奏をしている瞬間はロジックからふわっと解放されるんですよね。
↑中島氏のトリオでの演奏。
ー数学との関係は、ありますか?
中島:無関係ではないと思いますね。昔は結構分けて考えるときもあったんですけど、振り返って見るとすごく似ている。私も整理はできていないのですが、ひとつは〈創造性〉という点。特にジャズとかの場合は、その瞬間に何かを創りだしたいというような、衝動みたいなものがあって、ただ自我を表現するだけでなく、調和もあるし、感動みたいなもの生み出し続けるプロセスには〈問い〉がある。感性を解放しつつ、バイアスに満ちてしまわないように自由性としての論理もそこにはあって…。
ー自由性としての論理?
中島:感性=自由と思われがちですが、私はむしろ時には論理のほうが自由を与えてくれることもあると思っていて。感性が拡張されるというか。感性だけに固執していると、時に先入観に邪魔されて本質が見えなくなる。それこそ、似たような曲しか作れなくなった時にさまざまな論理から問い直してみると、縛られていたことから離れる。その苦行や試行錯誤を繰り返していくうちに、徐々にそうした新しい感覚・視点が身体の中に落ちてきて、いつのまにか自然と感性が拡張される…その繰り返しから、新しいものが生み出せるんです。
ーなるほど、確かにそれは先ほど話されていた数学と同じですね。
中島:学校で優秀な成績をとるだけでいいのなら、論理だけ使えばいいわけです。でも、生み出すことの喜びや苦しみを知ることのほうが価値がある。いくら下手だろうが成長が遅かろうが、それを知っている人の方が良い数学者、良い音楽家になれると思います。
音楽から見る日本。
ー論理と言うお話が出ましたが…音階みたいなものが数学で言うところの公式・言語にあたるのかなぁと思うんですが、どのようにお考えですか?西洋音楽とそれ以外みたいなものがあるようにも思うのですが。
中島:特に日本の古典的な音楽の場合、ちょっとずれてるとか、日本は特に違いますね。本当に、小節みたいな概念があまりなかったりしますよね。
ー雅楽とか本当にそうですよね。
中島:太鼓とかお囃子とか、割と流れるようで、音階もできるだけ竹の音・風の音とか、西洋でいうとノイズっていわれるものをすごく含んでいるのがとても面白いですよね。日本の音楽は、エゴを超えるようなところがありますよね。人間の中にある欲のようなものが、すべてそういうのが自然の中に溶けていくみたいな。
ーそれこそ、雅楽とかですと、神事としての側面もありますよね。
中島:インドの言葉ですけど、梵我一如っていう言葉がありますよね。自分と宇宙が実は一体化しているとか、自分と他者の境界線が非常にあいまいであるというような意味だと思うのですが、日本の音楽からは、そういうことを感じるんですよ。「素数さん」みたいに言うのは、日本人が多いんです。海外の人が「Mr. Prime」とか言わないんですね(笑)。日本人って、わりとすべてのものを感性で捉える場面は多いように思います。きっちりかっちりした、イエス/ノーで分けるような、西洋的なものになにかしら違和感を感じているように思うんです。日本がこれから世界に向けて発信できるのはそういう考え方かもしれませんね。実は、現代では、数学も科学も非常に日本的な、イエス/ノーではない世界に近づいている側面があると思います。日本の感覚って自然に近くて、今こそ「日本がすごいんだよ」ってことではないんですが、西洋以外の感覚が世界にもうちょっとうまく発信できると素敵だなあと思います。
ー作るのも演奏するのもDTMのように数値化されてしまう。そんな時代に人間が演奏する意味はどうお考えですか?
中島:もちろん、AIが作る音楽があってもいいし、多様であっていい。けれど、人は作曲家や音楽家の〈生きざま〉に感動するんだと思うのです。
ー世界観に共感するんですね。
中島:そう。AIがパーソナリティを持ち始めたとしても、完全に取って代わられはしないでしょうね。音、姿…コミュニケーションから見えてくるところすべてにドラマがあると思うんです。
感性を開き創造性に富んだ人生を。
中島:数学も音楽も、社会や世の中のことを面白く見せてくれます。特に数学やジャズは<人生>とも近い世界だと思っていて、時に小説やSFよりもドラマティックに感じることもあります。学校でそんな躍動的な数学・音楽の顔を学ばないのがもったいないくらい。ですので、さまざまな形で体系化したり具体の体験やオープンな問いに落として伝えようと試みています。
ーおっしゃる通り、我々の大多数の中では数学のイメージが学校教育のままストップしていて、誤解されたままになっている気がします。そんな社会を、今、どう見ていますか?
中島:個人的にはポジティブに考えがちなんですけど、めちゃめちゃ面白い動乱期だと思っています。ルネサンス期や20世紀を上回るくらい面白い動乱期であり、〈創造性の民主化〉の時代だと思っています。
ー具体的に、どういうことでしょうか?
中島:例えばルネサンス期には、活版印刷が発明されて誰もが〈知〉にアクセスできるようになり、科学と魔術がごった煮になったような文化が花開きました。20世紀には数学や科学に革新がありました。そこから今、インターネットの普及が大きく影響して、ありとあらゆる人が〈知〉を享受できるだけでなく自由に発信もできるようになっています。誰もが自分なりの声を挙げ、自分なりに社会と関わることができるようになってきたように思うんです。
ー自由にアイデアを発信できますが、その「自由」ってかなり曖昧なものでもありますよね?
中島:熊本大学の苫野一徳先生は、学ぶことを「自由になるため」と定義されています。そして、学校は「自由を相互承認する感性(センス)を育む場」とも。自分だけが自由だと、自分勝手が横行してしまうので、互いの自由を認めるネットワークが必要なんですね。
ーなるほど。
中島:そして今の時代、自己組織化やティール組織が注目されていることに象徴されるように、ヒエラルキー的な社会構造じゃなく、いろんなところに光があり、互いの相乗効果で揺れ動きながら、社会がまとまっている感じがしますね。
ー自由とは、それぞれが認め合う中で生まれるということでしょうか?
中島:数学にも音楽にも、自他が溶け合うような、この世知辛い世の中を超越していろんなものが融合していっちゃうような瞬間がある気がしていて。素数のことを“素数さん”って呼ぶことがあるとお話しましたが、それも素数と人が融和してコミュニケーションをとっているように思えるんです。音楽を奏ででいる瞬間にも、音楽が充満している空間に虫たちや過去に演奏したプレーヤーの魂やいろんなものが溶け合っているような瞬間があるんです。そんなときに、私は自由だって感じますね。
ー世の中のあり方が変わっていくかもしれない。
中島:そうですね。いかに創造的に考えるかが、大切ですね。例えば水分子もみんながランダムに動いてブラウン運動すると、実は大数の法則により(ある程度小さな大きさならば)、どこにもリーダーがいないにも関わらず美しい球形になります。
ー創造的に考えるためのヒントをいただけませんか?
中島:まず、〈感性を開く〉こと。自分とは無縁だと思っていた世界に触れ、そこで新しい考え方に出合うことを恐れないでほしいです。難しいけど…子供のころ遊んでいた境地って、喧嘩とかもいっぱい生じるんですけど、そういう衝動も含めてまずは無心に楽しむこと。思い切って触れてみて、間違っていてもいいから自分なりに解釈し、言葉や絵や音にし、ちゃんと誰かに伝える、アウトプットすることが大事かなと思います。
「いのちを高める」大阪・関西万博のプロデューサーに就任。
ー中島さんは、2025年に開催される大阪・関西万博にもプロデューサーのお一人として携わっていますね。
中島:はい。大阪・関西万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。8つのテーマ事業のうち、担当するのは「いのちを高める」というテーマです。パビリオンを成功させるだけではもったいないので、岡本太郎さんのように、生きることそのものについてエネルギーやメッセージを発信できたらと思っています。SDGsのようなものに世界中が注目している今、人々が本質を考え直し、幸せを追求している時代なので、きっとみんなに伝えることができると信じているんです。
これからの世界で失いたくないもの。
ー楽しみですね! では、最後にお伺いします。これからの未来、世界から失いたくないものは何ですか?
中島:定義は難しいし誤解されるかもしれないけど、やっぱり心とか愛とかそういうもの…。愛っていうと誤解されるかもしれないな。心は万物の中に眠っていると思っているんですけど、そういうものを感知したり、喜怒哀楽を掴めるような…なんというか、そういうやわらかーいものを掴むためのものは、残るといいかなって思いますね。
ーやわらかーいものを掴むためのもの…?
中島:心とか愛とかを掴むためにも、失くしたくないものは、「情緒」と言われるものかもしれないです。数学者の岡潔さんもそう言ってますね。それは、万物の中に眠っている心や、喜怒哀楽、道端に咲いているスミレの花や小さな虫も微生物など、さりげないものまでありのまま感じる力が残るといいかなって、思います。
Less is More.
私たちは、大きく価値観が変わる、非常に面白い時代に生きているのかもしれない。例えば、1+1が2でないことを、疑うのは現代ではとても勇気がいることだと思う。そして、そこから感性をすくい上げることが私たちに今一番求められていることなのではないかと思う。
(おわり)