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失われし岩石・巨石信仰。畏れと期待、その世界観とは。吉川宗明氏インタビュー。

文献には残らないほど古い時代から、日本のあらゆる場所で、岩や石を祀る文化があったそうだ。今の宗教とは異なる、不思議な世界観を持つ「岩石信仰」の研究をしている吉川宗明氏にお話をお聞きした。

吉川宗明:「なぜ人は岩石に惹かれるのか」を歴史研究。 / 既刊『岩石を信仰していた日本人―石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究―』 /日本宗教民俗学会会員、文化地質研究会会員
Xアカウント:@megalithmury

↑吉川氏が運営する「石神・磐座・磐境・奇岩・巨石と呼ばれるものの研究」は、膨大な岩石信仰についての情報が掲載されている。

岩石信仰に出会うまで。

-吉川さんは、どうして岩石信仰について興味を持たれたんですか?

吉川:そもそもは中学校の図書館で出会った「失われたムー大陸」という本がきっかけだったんです(笑)。

-えぇ!?ムー大陸から?

吉川:ムー大陸を真面目に語っている一冊で、教科書には載っていないだけにショックを受けました。四大文明以前の失われた文明(超古代文明)の証拠として、巨石文明がよく出てきました。日本にも、そのような巨石をまつる超古代文明があったと書く本があって、高校生の頃は関連本をいろいろ読みふけりました。このまま行くとちょっと危ない人ですよね(笑)。

-ちょっとオカルティックな印象はありますね(笑)。

吉川:オカルティックな始まりだったんです(笑)。ただ、超古代文明に対してロマンを感じつつもどこかしら懐疑心があったので、肯定派の本だけでなく批判的な本も読んでいました。結果、調べれば調べるほど、私の中で超古代文明に対する信憑性というのは瓦解していった訳ですが、オカルトや超古代と関係なく、人工的に造られていなくても、祀られていた岩石は現実として存在している。じゃあこの岩石たちは結局何なんだろうという謎は残ったわけです。

-岩石信仰は確かに存在していたんですね。

吉川:えぇ。岩石・巨石を神や仏として祀っていた文化はありました。今も神社に祀られた石を見たことありませんか?

-確かにしめ縄とかを巻かれた石を見かけることありますね。

吉川:そんな石を歴史的に調べていくことはできないか。起源を研究するなら、文献や文字が登場する前の時代になると思い、大学では考古学を専攻したんです。

-考古学の守備範囲なんですか?

吉川:ぴったりくる分野がないんです(笑)。信仰の一種ですから例えば心理学・宗教学なども絡んできます。岩石信仰を専門的に研究されている方もあまりいらっしゃらないので、手探りで研究をはじめました。日本の岩石信仰といったら磐座(いわくら)と思っていましたが、大学で研究していく中で早々に磐座以外の祭祀形態もあることなどを知りました。現在は、アカデミアなどに所属することなく、岩石信仰について調べています。

-「磐座(いわくら)」とおっしゃいましたが、磐座って何ですか?

吉川:岩石信仰を代表するような用語ですが、歴史的に調べたところ、祭祀の際に神が宿る岩石を特に磐座といいます。神として祀られる岩石ではなく、人と神のコミュニケーションのために用いられる施設や装置を指すんですね。

磐座は祭祀の施設。写真は祭りの時に神が降臨したとされる岩石。

-そういう、岩石や磐座って、日本にはどれくらいあるんですか?

吉川:実は難しい質問なんです(笑)。巨石写真家の須田郡司さんは、1万以上の数があるとおっしゃっていたと聞きました。定義にもよりますが、私がかつてまとめた岩石祭祀事例のデータに沿っても、少なくとも数千は間違いないですね。

-めちゃくちゃ多いですね!

吉川:掘れば掘るほど、知らない世界が見えてくるんですよ。この世界にはまって20年以上たちますが、インターネットでも毎日のように知らない岩石に出会います。もちろんネットに載らない場所ももっとあるはずで、そう考えると無尽蔵なんです。多分、人生かけてもすべての岩石に出会うことは無理とあきらめています(笑)。

-それほど多いんですね。

吉川:それほどに多いという事実は、かつて人々は岩石に名前を付け、特別視し、崇めていたという密接な関係を示していると思うんです。なのに現代ではそれほど知られていない。すごくギャップのある信仰ですよね。

-確かに、すごく興味深いですね!

吉川:これからのお話をわかりやすくするために、巨石信仰と岩石信仰というのは少し分けて考えたほういいと思っています。どちらも、石を祀っていることは確かなんですが、巨石信仰というのは石そのものの魅力と別に「巨大であること」というファクターが含まれていますから。

-あぁ!「石を祀る」と「巨石を祀る」ってちょっと印象が違いますもんね。

吉川:「巨大なもの」を畏怖し、圧倒されてしまうという心は、岩石特有ではなく、巨木信仰や山への信仰にも通ずるものでしょう。私は、岩石という物質そのものが、人に与える心理的な影響に興味があるんですよね。無機物なのに、なぜか惹かれて、惑わされる人が昔から現代に至るまでいらっしゃるのは不思議ですから。

巨石だけではなく、小さい石にも信仰は宿る。

-岩石に含まれる成分とかも関係するのですか?

吉川:成分も無関係ではないと思います。例えば、高い所にそびえる岩・石には雷が落ちやすく、雷が落ちると時に強い磁性を帯びます。パワースポットや山中の石に近づくと方位磁石が狂うという話もありますが、ある種自然な現象です。そして、ヒトの神経には微力な電気信号が流れていて、磁気を感じとると無意識のうちに脳波に反応が出るという最近の研究も聞いたことがあります。磁性の強い岩石がヒトの神経伝達、そして認知や心理にまったく影響をおよぼさないとは言い切れません。

-あぁ。確かに。

吉川:他にも、光ったり、火花が出やすかったりする岩石は、太古の人々からすると神秘的なものに見えたかもしれません。物質そのもののの特性によって、人間にとって違和感のある現象を起こすことがあります。

岩石信仰はいつはじまったのか?

-岩石信仰っていつ頃どのようにはじまったんですか?

吉川:文字のない時代の人の心を考古学的痕跡から見出そうとすると限界があり、今ある資料から推察するしかない現状です。その上で、私の考えていることをお話ししますね。

-よろしくお願いいたします。

吉川:大分県・岩戸遺跡から出土したこけし形岩偶=土偶の石バーションが最古の考古資料と言われています。紀元前25,000年頃・旧石器時代のものとされていますね。私が知る限り、これが岩石と信仰が結びつくであろう最古の考古資料だと思います。

↑文化庁の「文化遺産オンライン」に写真が掲載されている。

-そんなに大昔なんですね!

吉川:これは実測した結果、自然の石ではなく、削って人のような形にしたかったのではないかと考えられています。思ったよりも小さく、地味ですか(笑)?

-そんなことないです(笑)!これは、どのように信仰されていたんですか?

吉川:人のような形を彫ったからといって、それが祭祀用途だったとは即断できません。現代の価値観を物差しに考えない方がいいように思うんです。

-どういうことですか?

吉川:例えば、土偶は女性を象ったもので、石棒は男性を象ったものだから、性・繁殖・豊穣に関する祭祀に用いられたという説もありますが、本当にその解釈しかありえないのか、他の選択肢はすべて消去できたと言えるのかという疑問が私にはまだあります。

-あぁ!確かにそれすら分かりませんよね。

吉川:さらに、岩石に何かしら霊的なものを見出していたかというと、岩石はあくまで彫られるためのキャンバスとしてあり、その場合は、岩石を信仰していたとはいえないのではないかと考えています。岩石を信仰したのか、それとも、岩石を通して別の何かを信仰したのかという違いは大きいと思います。

-あぁ。確かに、石そのものじゃなくて単純に素材として使っているってことですもんね。

吉川:では、岩石そのものを信仰していた例はないのかというと、縄文時代に、自然の岩をまつっていたかもしれないという遺跡が報告されています。こちらは、山梨県の女夫石遺跡。女夫石の近くの地中から新たに岩塊が見つかり、その傍から実用に適さないミニチュア土器、石棒、土偶などが出土したんです。

写真の左・右の2つを合わせて女夫石。遺跡は斜面の下から出土した。

-へー!これは、信仰があった感じがしますよね。

吉川:岩石の傍でただ遺物が見つかるだけなら生活の中で偶然ともいえますが、実用に適さない遺物が見つかったということで、自然石信仰の事例候補に入れて良いと思います。他にも、川の浸食作用で磨かれた丸石や岩塊が集まって出土した縄文時代の集落遺跡も複数見つかっています。

こちらは、縄文時代の集落遺跡から出土した用途不明の岩石。

-めちゃくちゃ不思議ですね。

吉川:これが本当に信仰だったのかどうかは判明していませんが、研究に値する事例だと思います。ただし、これらを「巨石」と呼んで巨石信仰として扱って良いかはわかりません。

-言われてみれば、巨石というほど巨大でもないような気もしますね(笑)。

どのような世界観で岩石信仰がなされていたのか。

-さまざまなケースがあるとは思いますが、どのような信仰心を持たれていたとお考えですか?

吉川:これを知るには、文字のある時代と文字のない時代、その境目の文献を当たることでその世界観が浮かび上がってくると考えています。例えば奈良時代の『出雲国風土記』には

「神名樋(かむなび)山 嵬(いただき)の西に石神あり。高さ一丈,周り一丈なり。往(みち)の側に小き石神百餘(ももあまり)ばかりあり。 (略) 謂はゆる石神は,即ち是,多伎都比古命の御託(みよさし)なり。」

(出雲国風土記 楯縫郡条)

「神奈備山に石神がいて、道のそばに小さい石神も100くらいある」と書かれているんですね。石神というのは、読んで字の如く、石の神様のことですが、石神の中でも上下関係があり、複数の神が共存していたことがわかります。

-へー!多神教ですね!

吉川:ここで注目したいのが、最後の一文です。これは「多伎都比古命という神様の心のようなものが、この岩石に宿っている」ということが書かれているんです。この一文から私は、元々「石の神」を信仰していたのが、「多伎都比古命」にも見立てられていると考えています。風土記が書かれた時代では、土着の神であった「石の神」に対して、外部の神様の信仰も重なったのではないかと。

-あぁ。そもそも何か神様の代わりというわけでなく、岩石そのものを神として信仰していたんですね。

吉川:いきなり神話的な名前がつく神だったというよりは、非体系的・非言語的なアニミズムと考えてよいのではないでしょうか。

-アニミズムって、自然を信仰していたみたいなイメージですか?

吉川:万物に霊的なものを信じた、と言語化すると大仰な感じに聞こえるかもしれません。本来は、岩石を見てギョッとしたりオッ?って思う、言葉に表せない感情から始まった。あるいは、あくまで私の実感ですが、例えば何年も使ってきた文房具って愛着が湧きますよね。そういった愛着のようなものから信仰心の始まりを語っても良いと思います。しかし、これは信仰心と違うと批判されるかもしれません。それは「畏れ(おそれ)」があるかないか、またはその気持ちが強いか弱いかの違いなんだと思います。

-「畏れ」?

吉川:畏れとは「なにかよくわからないけれど自分を超越した存在に対して、恐れつつも、その力が自分にプラスに向くことを憧れてもいる感情」とまとめられます。憧れの感情がなくただ恐がるだけだと、相手に期待できなくなるので、祭祀ではなく忌避するという行動になり、信仰とはならないと考えています。

-なるほど。ちなみに、世界中にストーンサークルなどがあると思いますが、日本と同じような信仰と考えてよいのですか?

吉川:海外は専門外ですので明言はできませんが、例えばエルサレムの岩のドーム「聖なる岩」。ここは、ノアの方舟伝説で、洪水の後ノアが上陸した地といわれています。ダビデが契約の箱アークを置いた場所や、イスラム教ではムハンマドが神と会うなどの神秘体験をした場所などの伝承もあるそうです。このように、神聖な伝説の舞台となったり、神と会える場所として伝えられたり、宝物や捧げものを置く岩石であったりという岩石の用いられかたは、日本でも類似の事例があります。

なぜ岩石信仰は失われてしまったのか。

-かつて盛んだった岩石信仰ですけど、現代ではあんまり岩石を信仰するってあまり聞かないですよね。

吉川:減りつつも、新しくアップデートしているケースもあると思うんですよ。例えば、パワーストーンとかって、岩石信仰の一種とも言えるわけですよね。パワーストーンショップも増えていると思います。

-確かに!

吉川:何かを信じて岩石を手にするのですから、これも信仰と思ったほうが良いでしょう。他にも、工事中に出土した岩石を祀ったり、観光協会主体で岩石を祀ったり、経済界で人気を博したストーンサークルもあります。

工事で見つかった巨石をまつった現代例。

-そういうニュースもありますね。

吉川:ただ、「畏れ」のある岩石信仰は減ったんでしょうね。現代では世界の解像度が上がりすぎて、わからないことが減ってきて、恐れるべきものが減ってしまった。岩石は身近な存在で、小学校の頃には岩石は生物ではなくこういうものだと説明付けられてしまいますからね。

-あぁ。説明可能なものには畏怖がなくなるのかもしれませんね。

吉川:もうひとつ考えられるのが、岩石の露出が多い山間地域からの人口の流出・減少です。村などの共同体が昔ほど顧みられなくなり、これまで継承されてきた祭祀・信仰が断絶していることは明らかです。
思うのですが、その岩石がなぜ信仰されたのかを真に理解しようとするなら、その地の生活者となって日々接しないと見えてこないのではないでしょうか。例えば、私たちは好天の日に岩を見に行きますが、雨天の日だとまるで違う見え方をするでしょうし、季節によっても違う。昔は、その村で一生を過ごすという生き方だったと思います。そういう人々が岩石から感じ取ったものというのは、一度足を運ぶだけの外野の人間とはまるで違ったはずですよ。

-確かに、その岩石に接する回数がまるで違ったはずですもんね。

吉川:そのような距離感なので、私たちは岩石を無機物という学習済の知識で考えすぎていて、過去の人々の想像力や価値観、認知で岩石を見られなくなっていますよね。

-何かしら、示唆に富んだ信仰な気がします。

吉川:でも、信仰の変わらない部分もあると思います。人は不安定な環境に置かれたり、不安を抱くと、感情の安定を求めますよね。その解決法の一つが信仰なのでしょう。
現在は、膨大な情報がものすごいスピードで流れていきます。価値観もどんどんと変化しています。未来予測が不明瞭で、不安定な気持ちになりやすい時代だと思います。私から言えば「恐れつつも、その力が自分にプラスに向くことを憧れてもいる神のような存在」は、「これからの不明瞭な時代」です。

-VUCAの時代なんて言われますもんね。

吉川:そういう時代に、自分自身を信じる人もいますし、引っ張ってくれる誰かを信じる人もいますよね。そして、岩石や自然などの、何も言ってくれない存在に歩み寄って何か感じたり、信じたりする人もいるのかもしれません。いま不安がないという方でも、明日はどうなるかわかりません。関係ないと思っている岩石信仰がその時、自分事になる可能性はあります。自分だけに限らず、身内や友人など周囲で岩石を欲する人に出会ったとしても、岩石信仰の歴史をふりかえれば驚くことではないのかもしれません。

これからの世界で失いたくないもの。

-では、最後の質問です。吉川さんがこの先の世界で失いたくないものはなんですか?

吉川:100人いたら99人が横を通り過ぎてしまうような、誰も顧みていない地味なものですね。そういう中に、失われているものが多いのかなと思いますね。自分自身も無意識に通り過ぎているものが多い。自戒を込めて、そういうものを見つめていきたいなと思います。

Less is More.

神社やお寺を訪れると、何かしらの石を祀っていたりするのを見たことがある人は多いはずだ。でも、なんとなく通り過ぎてしまうことは多いのではないかと思う。
そういった、日常の中でなんとなく通り過ぎてしまうものにも、たくさんの不思議があること。吉川氏のお話をお聞きして、そういったものにもう一度目を向けて見ることが必要なんじゃないかと、そう思った。

(おわり)


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