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仏教の哲学「唯識」が描く世界。私たちは共同幻想に生きている。近藤伸介氏インタビュー。

「唯識(ゆいしき)」という思想をご存知だろうか。大乗仏教を代表する哲学として知られる思想だが、この思想を西洋哲学と比較研究しているのが近藤伸介氏だ。最先端の物理学の文脈でも少しずつ注目されているこの「唯識」について、近藤氏にお話をお伺いした。

近藤伸介:1969年東京生まれ。佛教大学総合研究所特別研究員。博士(文学)。成城大学文芸学部ヨーロッパ文化学科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科哲学専攻修士課程修了。佛教大学大学院文学研究科仏教学専攻博士課程単位取得満期退学。専門は唯識、比較思想。主な論文「ベルクソン哲学と唯識」(『比較思想研究』第42号)、「「水槽の中の脳」と唯識における生の在り方」(『比較思想研究』第43号)、「ショーペンハウアーの意志とアーラヤ識」(『比較思想研究』第48号)、「なぜ我々は解脱を目指すのか―ノージックの「経験機械」を手掛かりに―」(『日本仏教心理学会誌』第9号)、「マズローの至高体験と唯識が語る悟りの体験」(『日本仏教心理学会誌』第12号)、「唯識はいかに他者を語るか」(『佛教大学大学院紀要文学研究科篇』第45号)など。

2500年の歴史がある仏教。

-本日は「唯識」についてお聞きできればと思います。

近藤:どうぞよろしくお願いいたします。仏教には専門用語も多いですが、なるべく分かりやすく、興味を持っていただけるようにお話できたらと思います。

-まず、仏教というと様々な宗派がありますが、唯識って特定の宗派の思想なんですか?

近藤:日本では法相宗(ほっそうしゅう)という奈良の薬師寺や興福寺に代表される宗派が伝統的に唯識を伝えてきました。法相宗という宗派は、もともと中国で唐の時代に成立したもので、西遊記の「三蔵法師」として知られる玄奘の弟子たちが作った宗派です。しかし、唯識自体は紀元後のインドで大乗仏教の僧たちによって作られた思想なので、特定の宗派のものと考えるよりは、大乗仏教全体を代表する哲学と言ってよいと思います。

-すごく前提の質問ですが、大乗仏教ってなんですか?

近藤:仏教には、約2500年の歴史があります。この歴史も踏まえながらご説明してみますね。

-お願いいたします。

大乗仏教から生まれた「唯識」。

近藤:まず、仏教の開祖であるお釈迦様が存命だった時代には、宗派というものはありませんでした。出家者たちが「サンガ(僧伽)」と呼ばれる集団を作り、いかに苦しみを克服するかについて、お釈迦様から学んでいたんです。「出家者」というのは俗社会での仕事をせずに修行に専念する人たちのことで、それに対して、生活のために働いている一般の人を「在家者」と呼びます。

-なるほど。

近藤:お釈迦様の没後、数百年を経て紀元前後に生まれたのが「大乗仏教」です。それまでの仏教では、完全な悟りを開けるのは「出家者」だけとされていましたが、大乗仏教は出家・在家に関わらず、全ての人が解脱(げだつ。現世の苦しみを脱して悟りに至ること)して救われるという新たな信仰として誕生したんです。

-まさに誰でも乗れる「大きな乗り物」として生まれたわけですね。

近藤:はい。そして大乗仏教の誕生後、解釈の違いや在家の人に教えを広めるために多様に変化・発展していったのが、現在の様々な宗派です。大乗以前の仏教は原始仏教あるいはテーラワーダ仏教と呼ばれています。テーラワーダ仏教は基本的に、お釈迦様の言葉をそのまま伝えているとされるパーリ語の原始仏典だけを聖典としており、タイやミャンマー、スリランカなどで現在でも信仰されています。日本では彼らのことをよく「小乗仏教」と呼びますが、これは大乗仏教が蔑称として付けた呼び方なのであまり使わないほうがよいと思います。

-現在もテーラワーダ仏教、すなわち原始仏教は続いているんですね。

近藤:はい。お釈迦様以来の教えとされるテーラワーダ仏教と大乗仏教は、現在も共存しています。そして、大乗仏教の中から「唯識」という思想が生まれました。

唯識が生まれるまで。

-唯識という思想はどのように生まれたんですか?

近藤:創始者ははっきりしませんが、3~4世紀頃に北インドで「瑜伽行派(ゆがぎょうは)」、サンスクリット語で「ヨーガ―チャーラ」と呼ばれる大乗仏教の僧たちによって創始されたと言われています。

-それはどのような思想なんですか?

近藤:ごく簡単に説明すると、私たちが認識している世界の全て…私たちの身体や周囲に存在するものも含めて、全ては「表象」であるという思想です。つまり、私たちが認識している世界の一切は、心の中に思い浮かんだ姿や形に過ぎないということです。

-世界の全ては心の中に思い浮かべているだけのもの…!?

近藤:はい。唯識は物質も含めた現象世界のすべてを私たちの心が作り出した表象、つまり心の現れであると説明します。よって唯識は、心の外には一切の物質も現象も存在しないという徹底した唯心論なんです。

-徹底した唯心論ですか。では、唯識はそれをどのように説明してるんですか?

近藤:唯識では人間の心を8つに分類し、3つの階層構造で説明しています。色々な説明の仕方や解釈があると思いますが、今回は表層心理と深層心理という言葉でお話しますね。

-お願いいたします。

近藤:まず表層心理に属するのが「前六識」と呼ばれる6つの識です。これはいわゆる「五感」に相当する「眼識(げんしき。視覚)」・「耳識(にしき。聴覚)」・「鼻識(びしき。嗅覚)」・「舌識(ぜつしき。味覚)」・「身識(しんしき。触覚)」と、これら5つを統合し、思考をつかさどる「意識」の6つのことを意味します。

-五感+意識が表層心理とされているんですね。

近藤:はい。そして、無意識の領域である深層心理に分類されるのが、マナ識(末那識)とアーラヤ識(阿頼耶識)の2つです。このうちアーラヤ識は、私たちの心の一番根底をなす生存の土台となるもの、すなわち「存在基盤」と呼ぶべきものです。では、マナ識は何かというと、アーラヤ識を実体としての「自我」と誤って認識してしまい、私たちの中に自我意識、エゴイズムを生む原因となる識のことです。

-アーラヤ識を誤認して、エゴイズムを生む…?どういうことですか?

近藤:仏教では「諸法無我(しょほうむが)」と言って、およそ存在するものには不変的な実体がないと言います。この世界に存在するあらゆるものは、瞬間ごとに生じては滅していく刹那的なもので、永遠の実体を持たないと言うのです。そのことは、心の本体と言うべきアーラヤ識も例外ではありません。アーラヤ識も他のものと同様、実体がなく、絶えず変化していくもので、その在り方は激しい滝の流れにも例えられます。しかし、マナ識はそのアーラヤ識を不変的な実体と誤解して執着します。そして、マナ識がアーラヤ識を「不滅の自我」として執着することで、私たちの中に自我意識、エゴイズムが生じると言います。よって、唯識によれば、私たちのエゴイズムの根は深層心理の領域にあります。このように、唯識では、私たちの心を前六識、マナ識、アーラヤ識の三層構造で説明します。紀元後間もない頃から無意識の領域である深層心理を発見し、その働きまで論じていたわけですから、唯識は西洋の心理学の遥か先を行っていたことになります。何しろ、西洋の心理学が無意識の領域について論じ始めたのは20世紀前後、フロイトからですから。

アーラヤ識こそが世界を生じさせる基盤である。

-では心の根底にある「アーラヤ識」ってどういうものなんですか?

近藤:アーラヤ識は私たち人間も含め、およそ心を持つすべての生き物の存在基盤と言えるものです。アーラヤ識という心の根底をなす基盤から身体という表象が生じ、私たちはその身体を通して世界を認識しています。よって、アーラヤ識がなければ、私たちの身体も私たちを取り巻く世界もなく、私たちの生存そのものが成り立たないのです。また、アーラヤ識にはもう一つ大事な役割があって、私たちが心で考えることや感じることのすべてが「種子」と呼ばれるある種の力をアーラヤ識に残していきます。よって、今この瞬間にも、私のアーラヤ識には「心の作用の残り香」と言うべき種子が蓄積されていることになります。

-それはサーバーに情報が蓄積されていくようなイメージですか?

近藤:「アーラヤ」とはサンスクリット語で「住居」や「貯蔵所」を意味する語で、アーラヤ識は「蔵識(ぞうしき)」とも漢訳されます。その意味では、蔵の中に植物の種子がひたすら蓄積されていくというイメージでしょうか。あるいは、唯識では「熏習(くんじゅう)」と言って、アーラヤ識を衣服、種子を香りに例えて、衣服に香りが染みついて残っていくというイメージでも語られます。ただ、アーラヤ識には容量の限界がありません。よって、アーラヤ識には遠い過去からの無数の種子が蓄積されており、今もその数は増え続けていると言います。

-その「種子」ってどんなものなんですか?

近藤:法相宗の伝統では種子を「しゅうじ」と読んでいますが、これは私たちの心のあらゆる働きが後に残していく潜勢力のことで、それがアーラヤ識に蓄積されて保存されます。そして、その潜勢力が適切な「縁」に出会うと再び心の働きとして発現することになります。

-適切な縁とは?

近藤:例えば、私が何か悪いことを考えたとすると、悪の性質を持った種子がアーラヤ識に蓄積されて保存されます。そして、その何日か後に何かよくない誘惑に出会ったとすると、それが縁となって再び悪の心が生じてしまうということです。これがもし普段から悪いことを考えない人であれば、悪の種子はアーラヤ識に蓄積されません。その場合、たとえその人が何かよくない誘惑に出会ったとしても、悪の心を生じさせる潜勢力がアーラヤ識にないので悪の心は起こりません。そのようにアーラヤ識に蓄積された種子が私たちの人格や行動を決定します。そして、私たちがアーラヤ識にどういう種子を蓄積していくかというのは、私たちの日々の心がけ次第ということになります。私が今こうして話していることすら、アーラヤ識に種子として蓄積されているのですから。

-なんだか、アーラヤ識には、私たちの世界全体がアーカイブされているような…。

近藤:仏教では輪廻転生(りんねてんしょう)と言って、身体の死は終りを意味しません。たとえ身体的に死んだとしても、また新たな身体を獲得して生まれ変わると言います。それは私たちが最終解脱を果たすまで際限なく続いていきます。特に大乗仏教になると時間感覚は途方もなく拡大され、私たちはこの宇宙が始まる前から何らかの形で存在しており、またこの宇宙が滅んだ後も何らかの形で存続していくと考えます。そして、唯識に話を戻すと、私たちの身体はアーラヤ識から生じた表象であり、たとえ死に際して一つの身体が滅んでも、また新たに表象としての身体がアーラヤ識から生じるので、私たちは輪廻転生することになります。アーラヤ識は身体的な生死を超えて存続する存在基盤なのです。唯識における「身体」とは「認識の中心となる特殊な表象」ではありますが、それでも身体的な死とは一つの表象がなくなることに過ぎず、私たちの存在そのものが無に帰するわけではありません。大乗仏教では、私たちが知っている銀河系宇宙以外にも無数の世界が存在すると言い、よって私たちも地球上に生命が誕生する以前からどこかの世界で生存していたはずであり、よって私たちのアーラヤ識には地球や銀河系宇宙の誕生以前の無限の過去からの種子が蓄積されているということになります。このように大乗仏教では、生命というものを地球に限定して考えてはいないのです。

-アーラヤ識は時間的にも空間的にも地球や銀河系宇宙を遥かに超えているということですね。

近藤:はい。大乗仏教の世界観では、人類の誕生から現在までの数百万年の歴史なんてほんの一瞬に過ぎません。世界や宇宙は絶えず生滅を繰り返しており、私たちは今たまたま太陽系の地球という惑星に生を受けているに過ぎません。私たちは地球が誕生する以前から別のどこかの世界で生きていたし、いつか地球や銀河系宇宙が滅びたとしても、また別のどこかの世界に生まれ変わって生き続けることになります。そのように私たちは無限の時を生きており、また私たちのアーラヤ識には無限の過去からの心の作用がすべて種子として蓄積され保存されているのです。

-何か世界観が壮大すぎてクラクラします(笑)。

近藤:(笑)。ここで一つ質問があります。唯識では、私たちが認識している世界は、私たちのアーラヤ識から生じた表象であると言います。では今、私が会話している「あなた」という存在も、私のアーラヤ識が作り出した表象に過ぎないのでしょうか?

-自分自身では表象と感じられていませんが…どうなんでしょう。

近藤:ここは唯識について多くの人が誤解しているところなのでよく聞いてください。確かに今私が認識している世界は、あなたも含めて私のアーラヤ識から生じた表象です。でも、もしあなたという存在が私のアーラヤ識が生んだ表象に過ぎないとすると、私がいなくなった瞬間、同時にあなたも消滅することになりますよね。

-はい。そうなります。

近藤:しかし、考えてみてください。もし今ここで私が突然、心臓発作を起こして急死したとしたら、その時、あなたは消滅するでしょうか? 言うまでもなく、あなたは消えませんし、私がいなくなっても世界は変わらず続いていきます。これはどういうことかというと、あなたという存在は私のアーラヤ識が作り出した表象以上の存在だということです。私には私のアーラヤ識という存在基盤があるように、あなたにもあなたの存在基盤としてのアーラヤ識があり、私とあなたは同等のリアリティを持った存在だということです。よって、もし私の身体が死ねば、あなたも含めて私が認識していた世界の全体は確かに消えますが、しかし、あなたが認識している世界はあなたのアーラヤ識から生じた表象ですから、私が死んだ後も変わらず続いていきます。唯識は決して「独我論」ではないのです。つまり、「実在するのは自分の心だけで、自分が消えれば世界全体も消えてしまう」といった思想ではないということです。ここのところを誤解している人は多いと思います。
ではもう一つ質問です。この目の前のテーブルは、あなたが見ても私が見ても、おそらく同じ形で同じ色のテーブルに見えていますよね。私たちが認識しているテーブルは、それぞれ別のアーラヤ識から生じた表象であるはずなのに、なぜ同じ物として見えていると思いますか?

-さあ、なぜでしょう?

近藤:私たちはいわゆる「外部世界」を同じように認識し、共有することができています。だからこそ共通の認識に基づいて互いにコミュニケーションをとることもできるわけです。では、なぜ私たちは外部世界を同じように認識することができるのかというと、唯識では、アーラヤ識に「共相(ぐうそう)の種子」があるからだと説明します。これは私たちが共通して持っている種子のことで、もし私たちが何か共通の縁に出会えば、それぞれのアーラヤ識から共通の表象が生じると言います。私たちはこの「共相の種子」を互いに共有することで、外部世界という表象もまた共有することができるのです。

-種子を共有することによって、世界も共有していると。

近藤:はい。唯識では「他者」や「外界」というテーマが語られることは少ないのですが、誤解を恐れずに分かりやすく説明するなら、唯識で語られる外部世界は『マトリックス』という映画から理解するとよいと思います。

-あぁ!人間がプラグで繋がれながら、人工知能が作ったヴァーチャルリアリティ(VR)を現実だと信じて生きているという。

近藤:そうです。あの映画では、人工知能に地上を支配された未来世界で、人間たちがエネルギー源としてカプセルの中で培養されていました。そして、後頭部にプラグをつながれ、電気信号を脳に送られて幻想世界を見せられていました。彼らは人工知能によって設計された「マトリックス」と呼ばれるVRの世界を共有しており、それを現実の世界と信じさせられていました。唯識が語る外部世界は、この映画のVRの世界に近いと思います。唯識が語る外部世界も実はそれぞれのアーラヤ識が生み出した共通の表象、つまり共同幻想に過ぎず、また人々はその共同幻想を現実の世界と信じています。もちろん、唯識には幻想世界の設計者は出てきませんし、共同幻想としての外部世界は個々のアーラヤ識の「共相の種子」から生じるという違いはあります。それでも両者の語る世界は共通点が多いので、唯識の世界観を理解するための一つのツールとして『マトリックス』は有効だと思います。

-すごく理解しやすくなりました!

無我と輪廻転生を矛盾なく説明できる。

-仏教において唯識という思想が持つ意味あるいは役割とはどんなものでしょうか?

近藤:唯識が仏教において果たした重要な役割の一つに、「諸法無我」と「輪廻転生」を矛盾なく説明できたということがあります。先にもお話しましたが、仏教では諸法無我と言って、この世界に存在するあらゆるものには不変的な実体がないと言います。また一方で、輪廻転生と言って、生物は死んでも生まれ変わりを繰り返すと語っています。

-諸法無我=あらゆるものに実体がないことと、輪廻転生ってどういう矛盾があるんですか?

近藤:輪廻転生は、仏教以前からインド古来の宗教であるバラモン教で語られていました。バラモン教では、個々の生物はそれぞれ「アートマン」と呼ばれる不変的な実体を持っていると言います。このアートマンという実体が身体的な生死を超えて存続するからこそ、ある生物が一つの身体から別の身体に移行しても、同じ個体が生まれ変わったと言えるわけです。

-あぁ。個体の中に実体があるからこそ、生まれ変わっても別の肉体で同じ個体が存続していると言い得るということですね。

近藤:そうです。そして仏教もまた、バラモン教と同様に、輪廻転生という生まれ変わりを認めています。ですが、仏教では「諸法無我」と言って、あらゆるものに不変的な実体がないというのですから、当然個々の生物にもアートマンという実体を認めていません。個々の生物に不変的な実体がないと言いながら、生まれ変わりはあると言うのですから、外から見るとこれは矛盾しているように思われるわけです。そこで、実体がないのになんで生まれ変われるんだと、他の宗教から批判されていたのです。

-なるほど。で、仏教はその批判に対してどう答えていたんですか?

近藤:仏教では長らく、この批判に対して適切な説明ができなかったのですが、唯識がアーラヤ識を持ち出してきたことで矛盾なく説明できるようになりました。すでにお話したように、アーラヤ識は個々の生物にとって身体的な生死を超えて存続する存在基盤です。それでいて、アーラヤ識はアートマンのような不変的な実体ではありません。なぜなら、アーラヤ識は瞬間ごとに生滅をくり返しながら存続する「刹那滅(せつなめつ)」の存在だからです。その在り方は激しい滝の流れに例えられるように、一瞬たりとも同じではなく、常に変化していくものです。そのように、刹那滅でありながら生死を超えて存続していく存在基盤を唯識が語ったことで、仏教は諸法無我と輪廻転生を矛盾なく説明することができるようになったのです。このことは唯識の仏教に対する大きな貢献と言えます。

西洋哲学との比較研究。

-近藤さんの専門的な研究についてお聞きしたいと思います。

近藤:私は大学院で唯識について研究してきて、学位論文も唯識をテーマにしたのですが、現在は比較思想に関心があり、唯識と西洋哲学との比較研究に力を入れています。

-なぜ、その両者を比較しようと思ったんですか?

近藤:私はもともと学部と最初の大学院で西洋哲学を専攻していました。ですから卒業論文と最初の修士論文はフランスの哲学者アンリ・ベルクソンをテーマにしました。実は学部時代に唯識や道元の授業も取っていて、仏教にもそれなりに興味は持っていたのですが、当時の主な関心は西洋哲学でした。

-では、西洋哲学から仏教へと研究対象を変えられたのはなぜなんですか?

近藤:そもそも私が西洋哲学を学ぼうと思ったきっかけは、10代後半に将来の進路を考えたときに、「自分はなぜ生きているんだろう」という疑問にとらわれたことでした。一度その疑問にとらわれてしまうと苦しくて、どうしても答えを見つけなければならないと思いました。そこで西洋哲学を学び始めたのですが、大学院で研究していくうちに「どうもここには自分が求めている答えはないのではないか」と感じるようになりました。というのは、当時の私にとって大学院での研究は「哲学者になるための学び」ではなく、「哲学研究者を養成するための学び」のように感じられたからです。さらにもう一つ。様々な哲学書を読み漁っていくうちに、「結局、西洋のどの哲学者にも自分が求めているような答えはないのではないか」という西洋哲学の限界みたいなものを漠然と感じてしまったんです。そこで、もしここで研究を続けても、元々哲学を学ぶ動機であった「自分が生きている理由を探す」ことからどんどん離れていくような気がして、最終的に修士論文は提出したものの、博士課程を受験することなく大学院を去ってしまいました。

-なるほど。そうでしたか。ではなぜ、再び大学院に戻ることになったんですか?

近藤:最初の大学院を出た後、就職して2年半ほど公務員として勤務しました。そこで北海道から九州まで出張する機会があって、行く先々で時間の許す限り、各地の神社仏閣や教会を見て回っていたんですね。宗教的なものに興味があったのでどれも楽しかったのですが、中でも特にお寺を訪ねたとき、なぜかとてもしっくりくる感覚があったんですよね。理屈でなく直感で「私がいるべき場所はここかもしれない」という予感がしたんです。そこから独学で仏教を学び始め、36歳の時にさらに本格的に学ぼうと佛教大学の大学院に入学しました。

-出家して仏門に入るのではなく、研究へと情熱が向かったんですね。

近藤:はい。それまでも坐禅会には通っていましたし、その後も念仏道場に行ったり、インド式のヨガを学んだりもしました。ですが、私の性格上、ある教義をただ「信じなさい」と言われても、どうしても信じることができないんです。元々哲学を専攻していたのも、論理的に納得できないと一歩も先に進めない性格だからです。だから宗教に対しても、論理的に説明してくれないと信じられないんです。唯識を研究テーマに選んだのも、それが哲学で厳密な論理で理路整然と語ってくれていたからです。

-唯識にも西洋哲学にも造詣が深い近藤さんですが、実際に比較するとどんな違いがあるんですか?

近藤:ちょうど今、19世紀のドイツの哲学者ショーペンハウアーと唯識の比較研究を進めているのですが、彼の主著は「世界とは私の表象である」という言葉で始まっています。彼によれば、現象世界のすべては心の根源をなす「意志」から生じる表象だと言うのです。とても唯識に近いと思いませんか?

-あぁ!確かに…!両者にはどのような違いがあるんですか?

近藤:西洋にもショーペンハウアーやヘーゲルのように、唯心論的な世界観を持った哲学者はいました。しかし、彼らの思想がどれほど仏教あるいは唯識と似ていようと、やはり大事な点で異なっていると思います。それは「分別知(ふんべつち)を疑っていない」という点です。

-分別知?

近藤:「分別知」というのは、認識したものを分類して概念化・言語化する知の働きのことです。私たちが普通「知性」と呼んでいるものはおそらくこれで、分別知があるからこそ、人間は言葉を操り、科学を発達させ、文明を築いてきたと言えます。西洋の哲学者は、この分別知を悪しきものとはとらえていません。一方、仏教では、この分別知の対極にある知の働きとして「無分別智(むふんべつち)」を説いています。これは認識したものを分類することも概念化することもない知の働きです。仏教では、この無分別智が私たちを解脱に導くと言い、逆に分別知は苦しみを生む原因であると言います。

-どういうことですか?

近藤:分別知の世界にとどまっている限り、私たちは決して苦しみから解放されないということです。なぜなら、分別知そのものが苦しみを生む原因だから。だから、ニルヴァーナ(涅槃)のような苦しみのない、悟りの境地に至りたいなら、分別知の対極にある無分別智を働かせることが必要だというんです。

-無分別智、よくわからないのですが…。

近藤:私も実際に体験したことがないのでよく分かりません(笑)。なので、唯識の論書に書かれている内容をもとに説明したいと思います。

-よろしくお願いいたします。

近藤:瞑想の深まりとともに無分別智が発現すると、その瞬間、それまで認識していた対象はすべて形を失ってしまうと言います。そこでは「あれ」とか「これ」といった区別はなく、それまで実在すると思っていたあらゆる対象がすべて分別知が作り出した表象に過ぎないことが明らかになると言います。現象世界のすべてが実体のない表象に過ぎず、さらに表象そのものもまた実体のないものであることが明らかになるそうです。そういった境地が無分別智によって体験され、さらにその先に本当の悟りの境地があると言います。

-すごい…。分類や概念化、言語化とはまさに真逆ですね…。

近藤:そうなんです。仏教はこの無分別智を重視しており、分別知についてはむしろ苦しみの原因として否定的にとらえています。これに対して西洋哲学は、分別知…つまり分類し概念化・言語化する知の働きを肯定的に見ており、その負の側面を見ていません。そこが両者の違いであり、分別知を疑わない西洋哲学は、概念や言葉の世界から一歩も外へ出ていないと言えるかもしれません。

-なるほど!

近藤:そもそも唯識という思想は、「ヨーガーチャーラ」と呼ばれる人々によって作られました。「ヨーガ」は瞑想を主とする修行の総体、「アーチャーラ」は実践を意味します。つまり、唯識は瞑想の実践者たちから生まれた思想なのです。机上の理論ではなく、彼らは自ら瞑想修行を行い、その中で体験したことを言語化しているんですね。

-西洋哲学は言葉の論理を積み重ねて作られていくけど、唯識はまず先に体験があって、その体験を言語化することで作られたということですね。

近藤:その通りです。それが比較思想研究を通して、一番大きな違いだと感じました。ただ、西洋の哲学者の中にも神秘的な体験をした人は存在します。例えば、プラトンの語る「イデア」、プロティノスの語る「一者」、スピノザの語る「神」などは、おそらく彼らが実際に経験した神秘体験から語られています。彼らは瞑想の達人だったかもしれず、神秘体験が彼らの哲学にインスピレーションを与えたことはおそらく間違いありません。ただそれでも、彼らは分別知を疑っておらず、その負の側面を見てはいません。

-あぁ。彼らはたとえ仏教徒と同じ体験をしていても、言葉や概念を疑ってはいないと。

近藤:そうです。西洋哲学が言葉や概念を疑っていないのに対し、仏教は言葉や概念を用いてはいても、その限界や負の側面を分かった上で使っている。そこが両者の根本的な違いかなと思いますね。

-比較することで、そう言った違いが見えてくるのは面白いですね。

VRと唯識。

-ところで、この世界の一切が「表象」って言うと、どうしても現在では、バーチャルリアリティ(VR)のようなイメージを想像してしまいます。

近藤:構造的には近いので、唯識を理解するためにそのイメージは有益かもしれませんね。私自身もアメリカの哲学者ヒラリー・パトナムの「水槽の中の脳」という思考実験や、同じくアメリカの哲学者ロバート・ノージックの「経験機械」という思考実験を唯識の語る世界と比較する論文を書いたことがあります。ちなみに、先ほど『マトリックス』のお話をしましたが、この映画はこの辺りの思考実験に影響を受けているんじゃないかと思いますね。

-そうなんですね!

近藤:はい、おそらく。ノージックの「経験機械」というのは、「もしあなたが機械につながれることで、あなたが望むどんな理想もバーチャルに経験できる機械があったとしたら(もちろん機械につながれている間、人はそれを現実と思って経験できる)、あなたがその機械につながれることを拒否する理由はあるのだろうか?」という思考実験です。どんな理想も現実のものとして経験できるなら、機械につながれたまま生きるのも悪くないじゃないかとも思えますが、考案者のノージックによれば、私たちには経験機械を拒む理由がいくつかあると言います。中でも特に重要なのが、「私たちはただカプセルの中に浮かんで夢を見たまま一生を終えるよりも、より深い現実に触れながら生きていきたい存在だからだ」という理由です。これは、そのまま仏教にも応用できる考え方だと思いました。

-どういうことですか?

近藤:仏教において「なぜ人は解脱を目指すのか」というと、人は意識していようといまいと、やはり誰もが「真実の自己に帰りたいからだ」というのが答えではないかと思います。唯識では、私たちはアーラヤ識が作り出した表象の世界を生きていると言いますが、そうした虚構の世界に生きることに私たちは時に違和感を覚え、苦しさを感じます。そこで、表象による幻想世界を抜け出して、真実の世界、ありのままの本当の自分でいられる場所に行きたいと願う。仏教における真実の世界とはニルヴァーナ(涅槃)のことですが、それが私たちが解脱を目指す動機です。真実の世界に到達したいから解脱を目指すというその動機は、ノージックが語る、より深い現実に触れたいから経験機械を拒否するという理由と重なります。
仏教の開祖であるお釈迦様は、子どもの頃から自分が生きている世界に違和感を覚えており、この世界で生きていることに苦しんでいました。彼が釈迦族の王子として生まれ、物質的には恵まれた生活を送っていたことはよく知られています。でも、彼は物質的な快楽に幸福を感じられませんでした。それこそが彼の天才的な感性と言えます。おそらく彼は子どもの頃から、自分が生きている世界の虚構性を無意識に感じ取っていたんだと思います。ノージックの言う機械につながれ、カプセルの中で生きている人のように、お釈迦様は現象世界そのものに虚構性を感じ取り、違和感を覚えていたわけです。これは大人であっても、ほとんど持ち得ない才能ですよね。ただ、お釈迦様だけでなく、私もそうでしたが、人は一度、自分が生きている世界に違和感を覚えてしまうと、それを忘れることも耐えることもできない存在なのかもしれません。

-VRでは、たとえそれがどんなにリアリティを持っていたとしても、人はそれに満足できないということかもしれませんね。

近藤:VRやSNSにおける交流というのは、感覚的な快楽は得られるかもしれませんが、私たちが本当にその世界だけで満足できるのかは疑問です。唯識によれば、私たちの生きているこの世界そのものが共同幻想、すなわちVRなわけですから(笑)。

-あぁ。VR上にもう1つVRの階層ができるみたいな。

近藤:そのように幻想に幻想を重ねていくことで、私たちは知らず知らず、何か大切なものを見失っているのかもしれません。例えば、VRのゲームで殺し合いに熱中していた人が現実に殺人を犯し、しかもそこに何の罪悪感も感じていないといった事件が起きたらどうでしょう。仏教では「不殺生(ふせっしょう)」を第一の戒めとしていますが、VRの世界にのめり込んでいくことで命の重さもリアリティを失っていくとしたら本当に怖いことだと思います。
仏教には、最終解脱を果たした者を意味する「如来(にょらい)」という言葉があります。これは「そのままに来た者」ということで、あるがままの真実の自己として覚醒した者を意味しています。バーチャルな世界にのめり込んで行けば行くほど、こうした真実の自己からは遠ざかっていくように思いますね。

-あぁ。確かにVRはそうした危険性をはらんでいるのかもしれませんね。それにしても唯識は現代的な問いにも、答えてくれる素晴らしい思想ですね。

近藤:ええ。唯識という思想が現代において持つ意味はとても大きいと思います。ただ残念なことに、この思想は日本でも世界でもよく知られているとはとても言えません。私は微力ながら唯識を西洋哲学と比較することで、少しでもこの思想を仏教研究者以外の人にも知ってもらいたいと願っています。もっと言うと、仏教の教えそのものを広めたいのですが、それには論理的に理路整然と仏教の教えを語る唯識が強力なツールになるのではないかと思っています。

これからの世界で失いたくないもの。

-では、最後の質問です。近藤さんがこの先の世界で失いたくないものはなんですか?

近藤:「生きることへの問い」ですね。今までの人生を振り返ってみると、自分の原点は10代の頃に考えた「なぜ人は生きるのか」という疑問なんですよ。その疑問にすがるように生きてきて、その答えを見つけたいという思いから仏教にも出会えた。だからもしその問いをなくしてしまったら、自分のアイデンティティも失われて、生きる理由もなくなってしまうような気がします。だから生きることへの探求だけは、これからも死ぬまで続けていきたいと考えています。

Less is More.

青春時代に抱いた素朴な疑問「私はなんで生きているんだろう」。今も真摯にこの問いに向き合う近藤氏の姿に感動した。
仏教というと、どうしても宗派や作法の話が多くなるが、本当は人間なら誰しもが一度はぶち当たる人生の根本的な問題に応えてくれるものなのかもしれない。
私たちは、今一度、この仏教というものに真摯に向き合ってみてもいいのかなと、そう思わされるお話だった。

(おわり)

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