あなたに届いた歌が、そこに残っていたとして。声のアーティスト山崎阿弥氏インタビュー。
音はとても不思議だ。カタチもなく、空気を振動させ、時に私たちを感動させる。今回インタビューした、声のアーティスト山崎阿弥氏は、音は…歌は、失われず形を変えて空間に残るのではないかとお話しされている。エコロケーションと呼ばれる手法をはじめ、声の持つ可能性を様々な角度から探り、パフォーマンスやインスタレーションを通して伝えている現代アートだけでなく、時にTVドラマの特殊な音を声で作り出したり、TEDxトークで音の可能性についてお話しされたりと多岐に渡る活動をされている、山崎氏に、音・歌について聞いてみた。ご自身の活動から、量子力学や生命とは何か?という問いにまで話が及ぶ、ロングインタビューになった。
山崎阿弥:声のアーティスト、美術家。自らの発声とその響きを耳・声帯・皮膚で感受し、エコロケーション(反響定位)に近い方法を用いて空間を認識する。空間が持つ音響的な陰影をパフォーマンスやインスタレーションによって変容させることを試みながら、世界がどのように生成されているのかを問い続けている。また、量子力学に関心を持ち、科学者とのコラボレーションに力を入れている。近年はAsian Cultural Council フェロー(アメリカ、2017)、国際交流基金アジアセンターフェロー(フィリピン、2018)、瀬戸内国際芸術祭(2019)など国内外に活動の幅を広げている。愛媛県出身、東京都在住。
声のアーティストとはなんだ?
-山崎さんは、「声のアーティスト」ですよね。
山崎:はい。でも「声のアーティストです」と自己紹介しても、多くの場合理解してもらえません。「ボイスパーカッションですか?」「声優なんですね?」と言われることがほとんどです。言葉で説明を試みますが、実際にパフォーマンスすると分かっていただけます。
↑山崎氏の代表的なパフォーマンス。
-すごく不思議な声のパフォーマンスですよね。
山崎:以前はもっと“歌”然としたものを中心に歌っていた時期もありますね。それこそ、学生の頃はハードロックのコピーバンドで歌ったりもしました。高音が出せるし声も太かったので。
-現代アートなどを学んでおられたのかと思っていました!
山崎:いいえ。専攻は社会学で、文化人類学と表象文化論、倫理学を少しずつかじりました。声楽のバックボーンなどもないです。専門的に学んだ経験や誰かに師事したことはありません。
-そうなんですね。ちょっと意外です。
山崎:でも、あらゆる声や音を楽しみ、精緻に聞いてきました。その入り口は母の声の響きです。参観日か何かの時に“お母さん”と呼ばれる人たちの中で、母の声の響きが明らかに違うことに気づき、人間の声への関心が開いたと思います。小学校の金管合奏部でホルンを吹いていたときは、6台のホルンのうち、私を含む右側の3人と左側の3人で異なるキーのホルンを演奏していました。楽譜も同じだったと思うし、楽器の音域も低音域を除いてほぼ同じだったと思います。でも管が違うと微妙に音が違う気がして、右側を70%、左側を30%耳に入れて足して頭の中で中和して、その上で「音楽の中へこんなふうに混じっていけばよいのかな」と演奏していました。そもそも楽譜が読めないから。
-そのエピソードは、今の山崎さんの作品に通じるものがあり納得です。
山崎:在学時はキュレーターの仕事に関心がありました。でもその道を志すには大学に入りなおす必要があったし、さらに職業としては相当な狭き門…と迷っていて。就職活動もせず、院へ進むこともせず、最後まで好きなことを真剣に勉強していました。でも縁あって卒業後は石川県に引っ越すことになり、それをきっかけに大きく変化していくことになります。
-本格的にアートの世界へ進まれたんですね。
山崎:「あ、自分が創りたいんだ」ということに気づいて、まず、映画を作り出しました。
-映画!そのきっかけは?
山崎:金沢のあるイベントでたくさんの映画人たちと出会う機会があり、話していて楽しかったんです。正しく質問できさえすれば、一つの質問に1時間でも2時間でも100も1000も答えて下さる。こんなに素敵な人たちがいるこの世界のことをもっと知りたいな、と思いました。それと、偶然同じ時期に人からビデオカメラを借りまして…「これだ!」と。それまでレンジファインダーのカメラで写真を撮っていて、ファインダーから見る風景と写真の仕上がりが違うことに強いストレスを感じていました。カメラの機構上当然のことですが、調べもせずイライラしていて。ビデオカメラの液晶を見た瞬間その苛立ちがスーッと消えたのを覚えています。ビデオカメラの前に一眼を持っていたらまた違っていたかもしれません。
-そこで刺激を受けたんですね。
山崎:映画の音楽も自分の声やシーケンサーで作っていました。上映会の会場のオーナーが私の声を覚えてくれていて、あるとき「声だけのライブを月イチでやりませんか?」と誘ってくださったんです。それまでもプライベートな時間に自由に声を出すことはしていたけれど、人前で、声そのものに集中して表現していく出発点となりました。
歌と音。
-〈音〉と〈歌〉の明確な違いや、使い分けはしていますか?
山崎:あまり分けていません。すべて〈歌〉だと思っています。ただ、私がそう思っていても、受け取る側は音と歌を区別しますよね。区分の基準となるのは、音の継続時間や、言語を使っていても使っていなくても言語的な意味を伴うかどうか、といったことが挙げられると思います。究極的にこのくらい短い音でも(机をコンッと叩く音)、数時間分に匹敵するような豊かな何かを内包していれば音であり歌だと呼べると、信じたい。時々音楽家の友達と「そんな一音がいつか出せたらいいよね」と話したりします。“意味”ということで言えば、その人が置かれた状況や育った環境にもよりますが…言語的な意味が聞こえた途端、聴き手は自動的に意味を受け取る身体にスイッチしてしまうので、意識して声を出し分けています。相手も自分もいかに不安定な状態を楽しめるか、安易に着地しないスリルの中に居られるかが、音や歌の面白味のコアだと思うんですよね。
-なるほど。聴き手にも山崎さんと同じようにすべてを〈歌〉と感じてもらえるような音の出し方をしているということですね。その中で、〈エコロケーション〉という手法を使われていると思いますが、これはどういうものですか?
山崎:音・音波を発して、それが周囲の対象物に当たり反射する。それを感受することで対象物の位置がわかるというものですね。複数の方向にサーチして反響を得られると、対象物単体の位置だけではなく、周辺環境が認識できます。日本語で言うと〈反響定位〉ですね。
-イルカやコウモリなど動物の能力としてよく知られていますよね。
山崎:はい。目の見えない方の中には舌を打って出すクリック音や鈴などを使ってエコロケーションをしている方がいます。私がやっていることはそのように精緻なレベルには達していません。ときどき目を閉じた状態で街を歩いてみるのですが、怖くなってすぐ目を開けて視覚で確認してしまいます。私の場合は、歌うときに目的を絞り、空間をたっぷり味わってコミュニケーションをとるために行います。
-では、山崎さんは、どのようにエコロケーションをするんですか?
山崎:声を発し、手ではなく声で物に触れていく、と言い換えられるでしょうか。声の跳ね返りを、耳と声帯と皮膚で、できる限り感じとってみます。声でその空間をサーチしている感覚です。声が当たった部位の素材や形状、その裏側にあるものを、反響の様相から推測していく。私のコンサートでは、空間の部位に応じて声を変え異なる反響を探しながら空間とコミュニケーションしている姿をパフォーマンスとして見て・聞いてもらっています。
-日常生活の中でも、エコロケーションは活用していますか?
山崎:外で目を開けた状態で聴覚を全開にしたり、エコロケーションを試すこともありますが、逆にかなり危なくなります。視覚が働いて周辺は見えているのに、見えている世界がキャンセルされて音に耽溺してしまい、聞こう聞こうと音の方へ身体が寄って行ってしまうんです。交通量の多い道路なんかでやってしまったら…。聴覚は視覚に先んじた原始的な危険察知の機能なのに、音に溺れると好奇心が勝ってしまう。エコロケーションとは違う話ですが、生活する上で自然と察知した響き…たとえば人の声を聴くときに骨格を透かして見ながら聞いたり、鼻腔や声帯を息や声がどのように通るのか思い描きながら聞いてしまう。気持ち悪いですよね。
-いえ、面白いです(笑)。ちなみに、好きなタイプの声はありますか? 好きになる男性とか、友達になれる人とか。
山崎:おそらく好みはありますが、基本的には、すべての声を「面白い」と思っています。人の声って、生まれ持った身体の状態と経験や環境によって形成され続けていると思います。どんな生き方をどこでしているのか、それが露わになるメディアとして、どんな声も興味深いです。以前、子どもの声が低くなっているという記事を読んだことがあるのですが、兄弟姉妹の有無や遊ぶ環境の変化によって、誰かを呼ぶために遠くに声を飛ばしたり、フィジカルに何かを競い合ったりする経験の減少から起きていることが根拠として挙げられていたと記憶しています。
音が積もっていく。
-TEDx TALKにご出演された際に、「音が空間に堆積する」というような表現をされていましたが、山崎さんは、世界が音の堆積によってできていると考えているのでしょうか?
山崎:そうかもしれないと思いますし、そう思える出来事にも出合ってきました。もっと本格的に研究してパフォーマンスにフィードバックしたいと考えています。
↑山崎氏が登壇されたTEDx TALK。
-その出来事とは?
山崎:友人のギタリストが、コンサート中に体験した話です。私はその場に居なかったので、その人から聞いた話です。友人の演奏が終わった後、休憩を挟んで、ドップラー効果を使うアーティストが登場しました。あらかじめ録音した音はいっさい使わず、会場に数本のマイクを仕込んでおいて、リアルタイムに集音した音にドップラー効果を足して聞かせるというもの。その人が演奏を始めた途端、なんと、休憩前の友人が演奏したギターの音が出てきたんですって!
-うわ、すごい…。数分前に鳴らしていた音が、まだその空間に残っていたんですね。
山崎:会場に居た人たちは「音のオバケが出てきた…!」と、ゾーっと寒くなったそうです。ドップラー効果は、音源の速度…言い換えると、音の発生源と聴取者の距離によって周波数の高低が変化することによって起きます。近づくと振動が詰まって周波数が高くなる、遠のくと広がって周波数が低くなる。おそらく、人間の可聴域外に変化してなお振動として空間に残存していた“音”が、このアーティストの加えたエフェクトによって可聴域に引き戻された、ということですよね。過去の音が、現在や未来に影響を及ぼしていると考えると、ワクワクします。
-確かに、夢がありますね。
山崎:日常的にも、例えば小学校の教室って、放課後で誰もいなくなったあとも、子どもたちの雰囲気が残っていると思いませんか?
-それ、わかります!
山崎:そういう雰囲気の正体って、子供たちの声によってかつて空間が暖められた結果かもしれませんよね。そんなふうにごくごく普通のこととして私たちが経験していることの原因が、声や音ではないのか?と考えます。2018年に国際交流基金のフェローとして半年間フィリピンに滞在したのですが、現地の若手のサウンド・アーティストたちと話すと「うん、知ってる、あれでしょ?」みたいな感じで当然のように受け取るので驚きました。アニミズム、キリスト教文化、モダンカルチャーのミクスチャーのなせる業だと思います。
ーなるほど。
ニュートラルでイーブンな世界であるように。
-山崎さんは、パフォーマンスを通じて何を伝えようとしているのか、お聞きしたいです。
山崎:私は歌うことが好きなだけです。理由なく、ただ大切です。そして、非常に身勝手な話ですが、人を通して自分を知ろうとしているのだと思います。自分が何者であるのかを、歌というコミュニケーションの中で見出そうとしているのだと思います。
-自分を知るために、他人に声を、歌を出す。
山崎:それは翻って、私の声を聞いたり、インスタレーションを体験してくれる人が自分自身に会う経験でもあると思います。表現者と鑑賞者は共犯関係で、違う体系にありながら同等の重みを持ってその場に存在していると思います。ニュートラルな関係というか。
-ニュートラルな関係?
山崎:2011年に半年ほどニューヨークで活動した経験が発端なのですが、パフォーマンス終了後はいつも様々な方がもの凄い熱量で話しかけてくださいました。質問といったものはほとんどなくて、ただただ自分が何を体験したのか興奮して伝えてくれます。私を通して、彼ら自身を語り出そうとしている。その関係性が、すごく心地よかったんです。
-確かに、日本ではアーティストに近づき難かったりしますもんね。
-裏を返すと、山崎さんは今この世の中をニュートラルではないと考えているということですか?
山崎:自分が感じたことを率直にアウトプットできる環境にはなっていないように思います。でも、相手を精緻に聞き取ろうとするには、自分を明け渡さないといけませんから、それは興味深くも怖いことですよね。冒険はいつも楽しくて怖い。
生命とは何か。声への飽くなき好奇心。
-山崎さんは最近では量子力学に関心があるとのことですが、そもそも、量子に興味を持ったのはなぜですか?
山崎:人間の声なんて、研究者の言葉を借りれば、量子力学、素粒子物理学で扱うには大きすぎるし、暖かく湿っていて、とっ散らかりすぎている。でも、量子生物学の分野で近年、日常的な生命現象における量子力学の役割が発見されるのを知るにつけ、この分野の科学の眼で声を見つめたとき、今まで想像もつかなかったメカニズムが露わになるのではないかと考えています。私の知識は本を読んで手に入る程度のことですが、例えばバクテリア内部の光合成で量子コヒーレンスが起きていることや、クリプトクロムという光に敏感なたんぱく質の中で起きる量子もつれが鳥を正確な方角に飛ばせていることなど、すごく面白い。
ところで、私は四国出身ということもあり、弘法大師=空海が大好きなんです。声のアーティストとしても空海は大先輩ですよね。空海にまつわる本と量子力学・素粒子物理学の本を交互に乱読して、ふたつの世界を行来していると、同じことを違う言葉で表現していると感じたり、物理学の言葉で理解できなかったことが仏教の言葉で図示されるように、思考に梯子を掛けてくれる、と思うことがしばしばあって。かなりの時間をさかのぼる昔から、仏教が直感的に体得・感得していた世界の深さ、ある意味その“正確さ”にため息がもれます。
私は声を探求していく中で、科学の手を借りることで、歌うときに得られる直感を精緻に展開して、生命とは何かを問いたいのだと思います。
-具体的な展望を、少し聞かせていただけますか?
山崎:今はコロナ禍でとん挫していますが、アメリカの研究機関と自分の身体と声、声が発された後の空間の状態をリサーチしようとしています。自分が発した声の振動がどのくらいのスピードと範囲で減衰していくのかということと、その振動が形態を異にして一定期間存続しうるのか否か、可能な場合、保存の受け皿となる物質は何か?といったことを調べたいです。そして、聴取する側に何が起きているのかも探求したいです。Otoacoustic Emissionといって、かなり簡略化して言うと人間は音を聞くときに音を出しているのですが、これを掘り下げるとともに、発声時の口腔内の温度変化や超音波の有無などもリサーチし、私たちが「コミュニケーション」とざっくり称する行為のなかで、いったい何が起きているのかを知りたいです。これが明らかになると、「他者」とはいったい誰のことなのか?「私」とはどこからどこまでのことなのか?存在論的・認識論的な問いにもきっと大きな示唆が与えられますよね。
-その結果、生命の再定義にまで至ったらすごく楽しいですね!
山崎:日本で共同研究してくれる研究所が見つかれば、日本でもトライしてみたいことのひとつですね。
これからの世界で失いたくないもの。
ーでは最後に、山崎さんがこれからの世界で失いたくないものを教えてください。
山崎:うーん。冒険心…?誰にもつかまらずに逃げ切る…冒険し続ける心。誰にもつかまらないし、つかまえない。愛の対義語って憎悪や無関心ではなくて所有だと思うんですけど、いかに誰かを所有せず、私自身も所有されないかというのが人生の挑戦だと思うんです。だから失いたくないのは所有する・される欲望を捨て続けられる心…勇気ですね。うん。勇気かな。
Less is More.
声を出すことには、いつだって勇気が伴うもの。不均衡な社会を少しずつ失くすために、それぞれの声をそれぞれの場所で出していくことを山崎氏は伝えたいのではないか。勇気を失いたくないという、山崎氏の姿勢、私たちも声を…歌を出していくことを忘れずにいたいと思う。
(おわり)