家のない暮らしは、未来を規定せず生きること。アーティスト・村上慧氏インタビュー。
災害をきっかけに、住む場所の事を考えなおす人は少なくないだろう。安全な土地とは?今の場所で生活し続ける事が正解か?コロナ禍においてそのような問題意識は強まっているように思える。東日本大震災後、移住を生活するプロジェクトを通して日本を観察したアーティスト・村上慧氏にインタビューを行なった。
村上慧:アーティスト。1988年生まれ。東京を拠点に活動。2011年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。2014年より自作した発泡スチロール製の家に住む「移住を生活する」プロジェクトを始める。著書に『家をせおって歩く』(福音館書店,2019年)及び『家をせおって歩いた』(夕書房、2017年)がある。『家をせおって歩く』で第67回産経児童出版文化賞産経新聞社賞受賞。2017年文化庁新進芸術家海外派遣制度によりオレブロ(スウェーデン)に滞在。
「移住を生活する」プロジェクトとは?
ー村上さんの作品である「移住を生活する」について教えてください。
村上:簡単に説明すると、発泡スチロールで作った小さな家を背負って歩いて、日本中の色々な土地で生活します。一年後に、その移住生活の総括として展覧会を開催することを決めてスタートしました。
↑村上氏が背負って歩く発泡スチロールの家(撮影:内田涼)
ー移動生活中の寝泊まりはどうされてたんですか?
村上:寝る場所は、移動しながら確保しなければいけませんでした。「この家をここに置きたいんです。」という交渉をして、様々な場所に家を置かせて頂きました。土地の確保は、その都度問題が発生するのですが、トライ&エラーの中で、半分公共の場所である神社やお寺の敷地が交渉しやすいという事に気がつきました。
上:京都府京都市伏見区淀新町の東運寺の境内
下:京都府京都市上京区俵屋町の誠光社の軒下
ー私有地か、公共か、で許可取りのハードルも異なってきそうですね。
村上:そうですね。このプロジェクトを始めたばかりの頃、一度道に家を置いたまま銭湯に行ったことがあります。銭湯から戻ると、家が沢山の警察官に囲まれていました。当たり前の事なんですが、土地というのは、私有地以外でもそのほとんどが誰かの所有物です。道も公園も勝手に寝泊まりは出来ません。
ー他にはどのような土地を使用されたのですか?
村上:人の家の庭や、軒下などですね。お店の敷地を借りた事もありました。滞在中に、その土地に建っている家の絵を描く。という事もルールにしていた為、絵を描く事を条件に、土地を提供してくださる方もいました。しばらく活動を続けていくうちに、SNSや、取材を受けた新聞記事経由で、活動を知った方々から「うちで良ければ是非使ってください。」などと嬉しい連絡が来ることもありました。
ーそれはありがたいですね。
↑村上氏がプロジェクト中に描いた家の絵の一部。
村上:公共の土地では、区役所や市役所の駐車場なども交渉を試みた事があるのですが、「私には、許可できない。」と断られるんです。判断を下す事の出来る人が存在しないんですね。その点、道の駅は駅長の判断次第だったりして、対照的でした。そういうその都度で発生する問題の積み重ねから、断片的に見えてくるものがあって、自分はそれをやりたいんです。
ー断片的というと?
村上:例えば、こういう事がありました。東京都内の公開空地(ビルの高さ制限を緩和する代わりに、敷地内に一般に開放するスペースを作る制度)に、家を置いてビル内に入っているファミレスで昼食をとろうと思ったんです。すると警備員が駆け寄って来て、すぐさま撤去するように言われました。つまり、法律が目指している公共空間の理想が、下請けの警備会社まで共有されていない事がわかる場面だと思うんです。
ーなるほど。
考察する為の足場を作る
村上:僕の好きな作家のヘンリー・デイヴィッド・ソローの著書に『森の生活』という本があります。ソローは、湖のほとりの森の中と、町の中と、二つの拠点を行き来するようなかたちで生活しています。僕は、この行き来が、町を引いて見る為にすごく重要だと考えています。
ーそれはなぜですか?
村上:町の事・町での生活を知るには、町を引いて見る為の足場が必要だと思うんですね。ソローにとっての森の住処。それにあたる場所が、自分の場合は、この発泡スチロール製の家。移住生活という足場がある事によって、町を引いて見れたような気がします。
ー移住生活では、どこに向かうかあらかじめ決めていたのですか?
村上:決めてはいなかったです。旅をしたかったわけでも、最終的な目的地があったわけでもないので。とにかく移動してみようと、日中は家を背負って歩いて、次第に日が暮れて、寝る時間になる。だけど寝る場所がない。さて、どうしよう?といった感じで。手探りで移住生活をする中で、土地の確保も必然になってきました。生活しながら、生活の方法を探っていく。という事を繰り返して、結果的に、夏は涼しい方が良いので北上して青森まで、冬場はその逆で、宮崎まで移住生活しました。
↑移住を生活するプロジェクトの展覧会の様子(撮影:松尾宇人)at Gallery Barco
なぜ「移住」を作品のテーマにしたのか?
ーそもそもの話になるのですが、移住をテーマに作品を作ろうと思ったきっかけはなんだったのですか?
村上:東日本大震災の津波のニュース映像からの影響は大きいかもしれません。僕が、武蔵野美術大学造形学部建築学科を卒業したのが2011年の3月で、作家活動をスタートしようと思っていた矢先に大震災が起こりました。ニュースでは、家がまるでおもちゃの様に流されていく映像が流れていました。今までひとつだと思っていたものが、基礎だけを残して、『家』と呼ばれていた部分が流されていく。その様子に、土地と暮らしが離れていっているような感覚を覚えました。
ーとてもショッキングな映像でしたよね。
村上:気持ちの整理がつかず、衝動的に映像作品を製作しました。赤い屋根付きの発泡スチロール製の家を作って、都内で「引っ越しと定住を繰り返す生活」をする様子を映像にまとめたのです。それが震災から2ヶ月後の5月です。今、こうして振り返ると、この作品が前述した『移住を生活するプロジェクト』の前身にあたるかもしれません。
↑【引っ越しと定住を繰り返す生活(仮)】(映像作品/24分8秒/2011年)
ーその後はどうされたのですか?
村上:この作品の制作後に、大船渡の被災地を訪ねました。被災されて、仮設住宅で暮らす人たちの生の声を聞いたのです。流された家のローンを払い続けている人は、少なくありませんでした。
ー存在していない家のローンを払っているわけですね?
村上:そうです。住民票も仮設住宅には移せない為、家の跡地に残っている状態です。国の制度と現場があまりにも乖離している様子を見て、「土地や住んでいるところと、暮らしってなんの関係もないんじゃないか。」と思わされたんです。
ーそういう捻れた部分を深く探ってみようというのが、プロジェクトを行う原動力となったのでしょうか?
村上:それに加えて、原発が再稼働し始めたことが大きいです。被災地から東京に戻って、普通にアルバイトをしてた時期があって。そうすると職場でも電気を普通に使ったりします。結局のところ、「自分自身の暮らしも、良くないと思っている原発再稼働に加担しているのではないか」と考え出した。経済を回す仕組みから離れて、何かを変えていかなければならないのではという思いが活動のエネルギーとなりました。結果、社会の枠組みから離れてみることにしたんです。
未来を規定しすぎずに生活を続ける。
ー今現在は、東京のアトリエを拠点として活動されていますが、移住生活プロジェクトを行う前との変化はありますか?
村上:「家賃を払って生活する」ことに、かなり自覚的になりました。移住生活は、やってみて思ったのですが、とにかく忙しいんです。生活することだけで生活が終わります。言葉にしてしまえば簡単なのですが、家賃を払うという事は、時間を買っているのだと改めて気づきました。
ーでは仮に今、同じプロジェクトは出来ない?
村上:今同じ事をやれと言われてもできないですね。というのも、自分は、移住生活をやった結果やりたいことがいっぱい出て来て、それをやるには時間と場所がいる。そのために場所を借りる必要がある。という順番でここにいます。この手順を踏めた事は大きいと思っています。
ーではさらにこの先、生活のかたちが変わることも?
村上:未来の事はわからないですが、未来の自分を規定しすぎない事は大事だと思います。細胞って毎日入れ替わるじゃないですか。だから、厳密にいうと、今の自分と明日の自分って、違う生き物だとも言える。数十年後には、今ある細胞と全て入れ替わっているから、当然価値観も変わっていると思うんです。勿論自分だけじゃなくて、環境も土地も変化して駄目になってしまう可能性もありますし。なので、未来の自分を規定して縛ってしまうような行為を、なるべくしないでいることが重要かと。ローンを組んで家を持つということもその中のひとつだと思います。それをしていくことで安心することは、とても危険なんじゃないかな。
↑移住生活に用いた発泡スチロール製の家のドア部分。現在はパーツごとに分解されアトリエに保存されている。
ーコロナ禍である今、考えたことはありますか?
村上:自分だけではないと思いますが、最近は特に身の回りのより狭い範囲のことに目を向ける様になりました。例えば自粛期間中に庭先で畑を始めたのですが、食べた後の南瓜の種をなんとなく撒いたら、ちゃんと発芽したんです。今までゴミとしていたものが、成長してもう一度食べ物になる。当たり前の事かもしれませんが、身を持って体験した事は初めてだったので、知っていたけど知らなかったんです。そのことがきっかけで、近所の八百屋さんで野菜を購入する感覚も変わりました。
↑食べ終えた南瓜の種から成長した南瓜。花が咲き、実がなっている。
生活と経済の関係を可視化する試みとは?
ー現在進行中の作品などあれば教えてください
村上:札幌(札幌国際芸術祭2020)と、名古屋(2021年春頃)の二箇所で「広告看板の家」というプロジェクトを進行しています。
※7月22日に記者発表があり、札幌国際芸術祭2020が中止となりました。芸術祭は中止になりましたが「広告看板の家」プロジェクトは実施予定で、芸術祭の事務局とも連携しつつ、個人協賛を集め、札幌と名古屋で実現させるべく動いています。
ーそれはどういったものですか?
村上:一口五万円という単位で広告主から広告費を募集し、得た収入で、自分が住処に出来るほどの大きさの広告看板を作成します。そうして出来た広告看板内に実際に滞在し、そこでの生活の様子を展示するというプランです。生活と経済の関係を可視化する試みです。
ーこれも自ら生活する作品ですね
村上:既に一度同じテーマで、札幌で作品を制作したのですが、その時は生活にかかった収支などを全て開示しました。
↑札幌国際芸術祭2020(12月開催)の広告として、2月に制作した作品
ー実際にどのようなことを行ったのですか?
村上:広告看板内で過ごす為に必要なインフラを自作しました。例えば暖房は、「温床(おんしょう)」というシステムを利用して床暖房を作りました。
ー温床?
村上:農家の人たちの間で「踏み込み温床」と呼ばれ、古くからある技術なんですが、元々は、夏野菜の苗を冬のうちから育てるために使われていたそうです。簡単に仕組みを説明すると、落ち葉には土着菌が沢山ついていて、そこに米ぬかや鶏糞などを加えて混ぜ、水を足して上から踏み込めば、土着菌が葉の炭素と窒素を消費して二酸化炭素と熱を出します。発酵がうまく進めば摂氏70度近くの発酵熱を得る事ができます。僕はこの技術を、暖房として転用できないかと思い、実験を繰り返しました。
上:ワンボックスバンおよそ一杯分の落ち葉、鶏糞7kg、籾殻4.4kg、稲わら12ℓ、米ぬか15kg
下:蓄熱体として使用した赤レンガ
ー温床は成功したんですか?
村上:はい。雪の積もった2月の札幌でも、30度を10日間キープ出来ました。温床に加え次回の制作時には、ソーラーパネルで得た太陽光で看板を照らす事や、雪を飲料水に変換する仕組み等を考えています。
↑村上氏による温床実験の詳しい記事
ーインフラを自作することがこの作品の肝なのですか?
村上:もともとのスタートが、「どこでどうお金が発生しているのかわからない」という広告収入に対する疑問だったので、それに対するアンチテーゼとしても記名性のあるエネルギーを使用したいという思いはあります。
ーなるほど、とても面白そうです。楽しみにしています。
↑「広告看板の家」プロジェクトのフライヤー
これからの世界で失いたくないもの。
ー最後に、村上さんにお伺いします。世の中から絶対に失くしたくないものは、何ですか?
村上:最近思うのは 集まることです。集まる事自体ダメみたいな風潮になっていて、それがとても悔しいですね。今週末もまさに、それが理由でバーベキューが中止になったんですけど、集まって得られたかもしれない何かと、感染リスクを天秤にかけるのはなかなか難しいですよね。
人によって立場も違うのでなかなか難しいところではありますが、集まってしか得られない何かがあるのも確かですからね。
Less is More.
目の前の当たり前を疑う事は、簡単かもしれないが、村上氏は美術家として、直面した問題から逃げず、作品として答えを出しているように思えた。身近であるがゆえに見え辛くなっている生活というものに、自らが縛られそうになった時、村上氏の作品は、ヒントを与えてくれるかもしれない。
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(おわり)