1970大阪万博と岡本太郎。太陽の塔から考える思想と哲学。石井匠氏インタビュー。
今回は1970年に行われた大阪万博を、「テーマ展示プロデューサー」を務めた岡本太郎を軸に見つめ直してみたいと思う。多くの人が知る太陽の塔は、どのような思想とどのような価値観によって建造されたのか。
岡本太郎研究を手がける、芸術考古学者の石井匠氏に、お話をお聞きした。
岡本太郎と1970年大阪万博。
-石井さんのご自身については、後半に語っていただくとして、まずは1970年の大阪万博と岡本太郎さんについてお話をお聞かせください。
石井:よろしくお願いいたします。
-当時の万博において、岡本太郎さんが「テーマ展示プロデューサー」に就任されたのはなぜだったんですか?
石井:そのご質問は、おそらく「なぜ、あの岡本太郎が?」という意味も含まれている気がしますが、多くの人が抱いている岡本太郎のイメージって、「芸術は爆発だ!」の変なおじさんですよね。これは、1970年大阪万博よりだいぶ後の1980年代のTVCMやバラエティ番組の影響が強くて、お笑いタレントたちに番組内でいじられるようになって、変人のイメージがついてしまったんですね。
-確かに失礼ながら「芸術は爆発だ!の面白い人」と言うイメージがある世代はいるかもしれませんね。
石井:そうですよね。ですが、万博前、岡本太郎は日本でテレビ放送が始まった1950年代から出ていて、よく新聞記事も書いていますが、1960年代まではもう少し文化人的なイメージが強かったのではないかと思います。1954年に出版した『今日の芸術』がベストセラーになったように、文筆家としても活動していて有名ではありました。日本のアートシーンの中では、戦後の前衛芸術を牽引した旗手の一人でしたし、一般的に知られる芸術家でもあったと思います。
都庁のデザインを手がけた丹下健三と交流もありましたし、芸術家として、あるいは文化人として、様々な分野の第一線で活躍する芸術家たちや、政治家などの公人ともつながりがあったのではないかと思います。そういう関係から、万博のテーマ・プロデューサーの声がかかったのでしょうね。
-あぁ。万博以前の60年代のイメージは、万博以降と随分違ったのかもしれませんね。
石井:面白いのは、岡本太郎はそもそも万博開催が決定してから一貫して、万博のあり方やテーマを徹底的に批判していたことです。自身が関わる前から万博には反対していたんです。そんな人に白羽の矢を立てるというのもおかしな話ですよね(笑)。
-そうなんですか!どんな点を批判していたんですか?
石井:万博の「進歩と調和」というテーマがすでに決まっていたのですが、これを真っ向から否定していたんです。人類は進歩なんかしていない、矛盾や衝突がない表面的な調和など無意味だ、と。
岡本太郎記念館の平野暁臣 現館長が『岡本太郎 :「太陽の塔」と最後の戦い』(PHP新書)という本に詳しく書いていますが、そもそも万国博覧会自体が、国際見本市として国威発揚・産業振興・技術礼賛という3つのコンセプトを持ってスタートした。つまり、万博の役割はそもそも「エンターテインメントの装いを借りて国家が大衆を啓蒙する」文化オリンピックなんです。各国家の使命を帯びた煌びやかなパビリオンが、西洋的なモダニズムやグローバリゼーションを美しく見せる。岡本太郎は、そういうものに、全て反対していたわけです。万博のテーマ、役割、コンセプト、あらゆるものに反対していたんですよ。
-そこまでのアンチ万博だったのになぜプロデューサーを引き受けたのでしょうか。
石井:岡本太郎のパートナーだった岡本敏子さんによると、当時の万博協会は苦し紛れに依頼したんじゃないかとおっしゃっていますね。テーマ・プロデューサー候補は、自薦他薦、様々な候補が挙がっていたそうですが、揉めに揉めて、スケジュール的にも時間切れのところで、一か八か岡本太郎に白羽の矢を立てたのではないかと。
-苦し紛れに…。
石井:岡本太郎も、最初は引き受ける気はなかったそうですが、「引き受けていただけるまで帰れない」と毎日膝詰め談判しにくる協会担当者の熱意を受けて、真剣に考え始めたそうです。
それで信頼する周囲の友人や知人にも相談したそうですが、何か一つでもミスをしたら袋叩きになる、ボロボロになるだけだからやめた方がいい、という意見が大半だったそうです。
-国家絡みのプロジェクトは、今も昔も叩かれるものなんですね。
石井:ここが岡本太郎のすごいところなのですが、みんなから揃いも揃って反対意見が出たので「そんなにみんなが反対するなら、よし、やってやろうじゃないか」と決めたんだそうです(笑)。
-えぇ!?すごいですね(笑)。
石井:敏子さんから直接聞いた話ですが、これは天邪鬼という単純な話ではなく、楽で安全な道と死ぬかもしれない危険な道があったら、常に危険な死の道に飛び込む、分岐点に立った際は、そういう茨の「黒い道」を選ぶのが岡本太郎の人生哲学なんです。だからこそ、自分にとっては危険な道でしかない万博のテーマ展示プロデューサーにあえて就任したわけです。
-なるほど。
石井:当時、学生運動も盛り上がりを見せていましたが、反体制の学生や芸術家を中心に「反博」という万博への反対運動もありました。そういった人たちからは、岡本太郎が国家権力に与するなんて!と、批判の声があったのですが、岡本太郎自身は「俺が一番の反博だ」と思っていたんですね(笑)。
「太陽の塔」とは何か?
-そもそも「テーマ展示プロデューサー」ってどういう役割なんですか?
石井:1970年の大阪万博のメインテーマは「進歩と調和」でした。このメインテーマを体現する、万博の顔とも言えるようなパビリオン(展示会や博覧会などに用いられる仮設の建築物)を造る、という役割です。そのテーマ館が、多くの人が知る「太陽の塔」です。パビリオンは仮設なので、万博終了後は取り壊すことが前提で建設されています。
-1970年代の大阪万博における岡本太郎の象徴的な仕事は「太陽の塔」だと思うのですが、改めて教えてください。
石井:「太陽の塔」は、一言では説明できないくらいにさまざまなコンセプトや、思想がギュウギュウに詰め込まれている作品ですので、順を追ってお話ししていきますね。
-よろしくお願いいたします。
石井:まずは、先ほど話したように、岡本太郎は国際見本市としての万博には徹底して反対だったわけです。では、これからの人類に本当に必要なのは何か。岡本太郎は、人類に「進歩」があったとして、その過程の中で、人類が失いつつあった人間の"誇り"や"生きる尊厳"を奪還することが必要だ、と考えました。そのために万博に必要なのは、「祭」であると岡本太郎は考えていました。
-祭?
石井:そうです。関わる一人ひとりが、すべてのエネルギーを注ぎこんで作り上げる「祭」。今も日本各地に残る祭礼としての祭をイメージしていました。万博を単なるお祭り騒ぎのイベントではなく、神聖な祭として再定義し、その中心に、祭の神像として「太陽の塔」をぶち立てるという計画でした。
それも単なる鉄筋コンクリートの像ではなく、「太陽の塔」は、ある意味で生き物のような、人工生命のようなものとして作られています。テーマ館サブプロデューサーの千葉一彦さんの話によると、岡本太郎は、塔の内部にある「生命の樹」を「血流」であり「血管であり神経系であり」、「太陽の塔の動脈だ」と言っていたそうです(平野暁臣『「太陽の塔」岡本太郎と7人の男たち』青春出版社)。
ですから、「太陽の塔」には血の通った生き物としてのイメージがあるんですね。
-そういった思想がベースになっているわけですね。
石井:そうです。「太陽の塔」は、構想の時点では「生命の樹」という名前がつけられていました。
塔の内部には、五大州=五大陸をイメージした5色に彩られた鉄骨の背骨のような「生命の樹」が立っています。地下空間に根を張り、天空まで届く「世界樹」のイメージです。これには、生命の誕生と進化がまとわりついていて、微生物が人間へと辿り着くまでの進化の系統樹を表現してもいます。
さらには、塔の中に入った人たちが、この「生命の樹」へ辿り着く前の最初の入り口に、宇宙のはじまりや、物質の誕生の歴史をめぐる仕掛けもあったんです。要は、「太陽の塔」自体が世界全体、もしくは宇宙でもあったわけです。
-めちゃくちゃ複雑なコンセプトが表現されているんですね。
石井:塔の外側のコンクリート部分は、どちらかというと後付けの外殻に過ぎず、内側にそびえる「生命の樹」こそが「太陽の塔」の本質と言えると思います。
-確かに様々な情報が盛り込まれているんですね。
石井:「太陽の塔」は、地下空間=過去、地上=現在、大屋根の空中=未来という3層構造になっています。つまり、一つの神像モニュメントの中に、3つの空間と3つの時間が圧縮されているわけです。当時、「太陽の塔」を訪れた来場者は、現在の地上から地下の過去へとエスカレーターで降りていくところから始まります。
地下への入口は、宇宙のはじまりのビッグバンからスタートし、来場者はいったん無に解体され、無から有へ、物質へと転生し、生命の誕生と進化の過程をたどりながら塔の中を巡り、空中の大屋根に展開される未来都市を体験した後、最後は「母の塔」と名づけられた、胎盤形のモニュメントを受け皿に、現在の地上に戻ってくる道順になっています。
見方を変えれば、来場者は、神像の胎内くぐり(現世から他界を通り抜け、死と再生を体験する修験道の修行)を体験することになるので、一種のイニシエーション装置としても機能していたんですね。
-あぁ。「太陽の塔」に入ることが、儀式でもあると。
石井:そうです。これを、万博のテーマ館として会場の中心に据えたわけです。冷静に考えると、こんなものは本来、国際見本市の万博には、まったく必要ないんですよ(笑)。
-確かに万博とは関係ないように思いますね(笑)。
石井:よくもまぁ、あんなものを造れたもんだと思います。テーマである「進歩と調和」を体現していると言われれば、そのように受け止めることもできる。ところが、中身はテーマなんてどうでもいいと言わんばかりの造りになっていたわけです(笑)。ともかく、岡本太郎は、万博の中心で、反万博を徹底的に貫いたと言えるのかもしれません。その意味では、「太陽の塔」は万博会場の中で、世界の深淵を覗き見るブラックホールの様な存在です。
-確かに。
石井:ですから、岡本太郎は、独りよがりな作品として「太陽の塔」を造ったわけではなく、最初にも言ったように、本気で万博を神聖な祭りに変えようとしていたんです。宇宙の中心に立つ世界樹としての「太陽の塔」を、万博来場者約6400万人の生きがいを取り戻すための装置にしたかったんですよ。神像である塔の胎内をくぐり抜けることで、人間の本来のあり方、生き方を思い起こさせる。これこそが岡本太郎が万博で実現させたかったことなのではないかと僕は思います。
岡本太郎と縄文文化。
石井:もう一つ、岡本太郎を語る際に重要なのが縄文文化との出会いです。「太陽の塔」のコンセプトにも縄文は関係しています。
-岡本太郎と縄文文化の関係を教えていただいてもいいですか?
石井:岡本太郎が縄文文化に出会ったのは1951年、上野の東京国立博物館でたまたま縄文土器と出会ったことから始まります。縄文土器に全身がぶるぶると打ち震えるほど感動したそうですが、それまでの岡本太郎は、日本の芸術のルーツを知るために、奈良や京都などをめぐり、いわゆる伝統芸術と呼ばれているものを追いかけはしていたのですが、どうもピンと来なかったらしいです。
-そうなんですね。
石井:つきつめていくと、もてはやされている伝統的な日本美術の多くは、中国大陸由来の輸入品ばかりではないかと、そこに自分の感性が接続できない歯がゆさのようなものを岡本太郎は感じていたようですね。
日本人のオリジナリティ、根源を日本の伝統に見いだせないでいた岡本太郎は、縄文土器という日本列島にかつて存在した異質な文化にアイデンティティを見いだした。太古の昔に同志を見つけたような感覚です。太郎流に言えば「もうひとつの自分」だったのでしょう。縄文時代に生きた人々が、彼の戦友になったわけです。
-あぁ。自らのアイデンティティを縄文まで遡ることで獲得したわけですね。
石井:戦後の日本は、復興期を経て高度経済成長期に突入していくと、人間の機械化が世界的にもどんどん進んでいきました。経済産業の発展を支える労働力を担う人々が、機械のパーツのようになっていく時代です。人々が疎外されていく中、それを救うためにも「縄文」が必要だ、と岡本太郎は考えたのだと思います。
-どういうことですか?
石井:岡本太郎は、日本だけでなく世界中の人たちが、モダナイゼーションによって動植物や自然、超自然とも共に生きていた人間本来のあり方を見失っていくことを危惧していました。岡本太郎にとっての芸術は、人間の本来のあり方を再獲得するための手段、疎外された人々を救う手立てなんです。
ですから、1970年大阪万博のテーマの一つ「進歩」を批判するとき、「縄文土器を見ろ!こんなに凄いものを現代人がつくれるか?」と問いかけ、「人間は進歩なんかしていない」と全否定するわけです。自然や超自然と常に向き合い、森羅万象と「いのちの交歓」をしていた縄文時代の人々の野生の感性をとり戻せ、と太郎は言いたかったんでしょうね。
とにかく、戦後復興と高度経済成長期の人間疎外の問題に対して、太郎は非常に危機感を持っていたんです。
-あぁ。万博だけでなく、ベースにそういった危機感・焦燥感みたいなものがあったと。
石井:特に万博では、自分の作品づくりというような個人的な欲望を超えて、人類救済のために「太陽の塔」を制作したのではないかと思いますね。
-なるほど。
石井:それにしても今も変わらず、岡本太郎が抱いていた危機感がそのまま世界を覆っているのではないでしょうか。近年、にわかに縄文文化の再評価というか、縄文時代のあり方に注目が集まっていますよね。
-えぇ。そうですね。
石井:もしかすると、現代社会は、このままだとちょっとやばいんじゃないかと、どこかでみんな気がついているのかもしれません。だからこそ、無意識に縄文文化に何かヒントはないかとやさがししているような気もしますね。
-そういう側面があるのかもしれませんね。
石井:ともかく、こういう非常に重層的な思想や哲学、世界観がダイナミックかつ緻密に織り込まれたのが「太陽の塔」なんです。一言でいえば、神聖な祭りを執行する神像、これがあったからこそ、他のパビリオンも生きたとも言えるし、逆に他のパビリオンは解体されて死んでしまったけれど、神像だけは生き残ったとも言えます。もし、「太陽の塔」がなかったら、アメリカの月の石を見てキャアキャア言うだけのお祭り騒ぎ、単なる見本市のイベントで終わってしまったのではないかと思いますね。
世界からの評価は?
-お話をお聞きすると「万博」の中でもかなり異質なイメージもあるのですが、世界からの評価はどうだったのでしょうか?
石井:当時の海外メディアがどのように報じていたのか、調べてみないことには詳細は分かりませんが、同じ塔でもパリのエッフェル塔とはまったく異質ですし、万博の歴史のなかでも目立つものではあったのだろうと思います。
1970年5月25日の読売新聞に、岡本太郎が「“太陽の塔”と私:賞賛と非難に」という記事を寄稿しています。ここでは、「いまパリから、太陽の塔の模型を中心に、私の様々の作品・活動を紹介したいと言ってきている。来月下旬から開催される予定だ。五重塔ではない日本。ニューヨーク、パリの陰ではない日本。現実紹介の真剣な企画があちこちで進んでいるようだ」と書いています。
ですから、五重塔に代表されるようなエキゾチックな日本でもなく、先進諸国の劣化版としての日本でもない、現実の日本を捉えようという海外の機運が、「太陽の塔」をきっかけに生まれているので、岡本太郎の万博の仕事は、世界からも評価されていたのではないかと思います。
-あぁ。非常にオリジナルな、世界が見たことのない日本の文化だったのかもしれませんね。
石井:2010年上海国際博覧会の際に、中国の関係者が万博の歴史を調べたところ、「太陽の塔」が突出して非常に異質だ、いったいあれはなんだ?、ということで、平野館長が中国に招聘されたそうです。中国から「「太陽の塔」はなんなのかを説明してほしい」と(笑)。このことから考えても万博史上、かなり異質なものであることは、間違いないと思います。
2025年の大阪万博に向けて。
-さて、岡本太郎の手がけた万博からおよそ55年。石井さんは2025年に開催予定の大阪万博はどうお考えですか?
石井:僕は、あくまで外野ですから、口を出す立場にはありません。外野が批判するのは簡単ですが、現場では多くの方が苦労されていると思います。ただ、いくつか興味深いところ、気になっていることはありますので、あくまで個人的な疑問点をお話ししますね。
-お願いいたします。
石井:2025年大阪万博の『基本計画』を読むと「いのち輝く未来社会のデザイン」という大きなテーマと、サブテーマとして「いのちを考える軸として」「Saving Lives (いのちを救う)」「Empowering Lives(いのちに力を与える)」「Connecting Lives(いのちをつなぐ)」という3つが謳われています。これらのコンセプトは、岡本太郎が「太陽の塔」で表現したかったことに近いように思うんですね。
-本質的には近いのではないかと。
石井:えぇ。岡本太郎の縄文時代観を一言で表すと「いのちの交歓」ですし、「生命の樹」がセットされた「太陽の塔」が人々の生きる尊厳を奪還するべく造られた、という意味では、わりとコンセプトは近いと思うんです。
ですが、果たしてこれらのコンセプトを、今回の万博関係者たちがどこまで本気で表現する気なのか、ニュースなどを見る限りは疑問がありますね。
-どういったことが疑問なんですか?
石井:たとえば、大屋根リングという世界最大級の木造建築を建造することが話題になっています。ですが、この大屋根に使っている木は、きちんと木と対話して使われることになったのか?と考えると、そうではないんじゃないかと危惧しています。
-木と対話?
石井:私たち現代人は、木や石を素材としてしか捉えていませんが、そもそもの話、木材といっても木は生きものですよね。万博の大屋根リングは、生きものの命を奪ってつくる建造物です。万博のコンセプトは「いのち輝く」であるとか、「いのちを救う・力を与える・つなぐ」と謳っていますが、その「いのち」は、いったい誰の命なのでしょうか?
縄文文化のような狩猟採集民の文化では、たとえ”物”であっても、他者として捉えます。ですから、たとえば、アメリカ先住民が土器を作るとき、粘土を取り出すだけでも大地にきちんと祈りを捧げ、大地の許しを得てから粘土を使うわけです。
ですから、伐採し、いのちを奪う木々とは対話をしたのか?という点が、僕は気になるんですね。カタチだけ「いのち」を表現し、人間中心主義のままでいても仕方がないんじゃないかと思うんです。
-あぁ。もっと自然を深くリスペクトしないと、見せかけだけになってしまうのではないかと。
石井:さっきも言いましたが、「生命の樹」を内蔵する「太陽の塔」は、実際には生命ではない人工物にすぎないとしても、命ある存在として作られたわけです。岡本太郎は、石膏原型を100倍のスケールにした際も、自分自身が触れずに作ることに違和感をもっていたようです。そこで、塔の顔の原寸大原型を作ったとき、自分自身が直接触れ、対話しながら作ることにこだわった。
なので、とある記者に「太陽の塔」について「あれはいったい何か?」と問われたとき、太郎は「それは本人に聞いてくれ」と答えています。笑い話にされてしまいがちですが、万物と共に生きていることを、頭で考えるだけでなく、身体表現として実践できるかを大事にした、というより、頭で考える前に実践していたわけです。
-あぁ。それでこそ、思想と作品が合致するのかもしれませんね。
石井:一方で、今回の万博にもどこかしら岡本太郎の影響を感じるのは嬉しいことです。くり返しになりますが、岡本太郎の縄文観は、一言で表すと「いのちの交歓」。「交換」ではなく、交わり喜び合うという意味です。森羅万象とのいのちの交わりが、岡本太郎にとっての縄文の捉え方なんですね。そういう本来的な意味での、岡本太郎の思想が少しでも受け継がれていたら嬉しいなと思いますが、実際はどうなのでしょう。
芸術考古学とは何か?
-石井さんが手がける「芸術考古学」ってどういう学問なんですか?
石井:現在の日本のアカデミアには存在しない分野です(笑)。
-そうなんですね(笑)。
石井:西洋美術史においては、西洋の「美術考古学」の研究者は多くいらっしゃいますし、各大学に講座は存在します。ですが、日本の美術史学には「美術考古学」はないんですよ。これは、グローバル視点から見ると、イレギュラーなことなんですよね。日本では、美術史は考古学と棲み分けをしていて、古墳時代以前の美術史は、なぜか考古学者が語るということが起きています。
-あぁ。日本はちょっと変な状況なんですね。
石井:僕の場合、そもそもの出発点が岡本太郎の縄文土器論がきっかけだったわけですが、岡本太郎は芸術家という視点と人類学者としての視点で縄文を語っています。ところが、岡本太郎のような視座で研究している日本の考古学者は皆無だったんですね。それで、さんざん悩んだ挙句、とりあえず「芸術考古学」という存在しない分野を名乗って、研究を続けているという状況です(笑)。
-なるほど。そもそも岡本太郎さんに興味を持ったのはなぜなんですか?
石井:少し長くなりますが、考古学との出会いからお話しさせてください。
小学生の頃、どこかで土器を拾ったことがきっかけだったか、考古学者になりたいと思っていました。ちょうどその頃、吉村作治さんがエジプトで発掘するのをテレビで見て、早稲田大学で考古学を学ぼうと思ったんですよ。ところが、吉村さんの所属は早稲田大学の人間科学部だったんです(笑)。
-え!?考古学がある学部でなく?
石井:僕にとっては一つの挫折でして、憧れていた先生が、大学の考古学専攻の本丸にはいらっしゃらなかったわけです。それでもとりあえず、エジプト考古学が学べそうな大学を選んで受験するんですが、受験の直前に、やはりテレビで岡本太郎さんの特集を見て、「こんなにすごい日本人がいるのか」と驚いたわけです。そこから岡本太郎全集を読み漁りはじめたんです。おかげで受験に失敗するくらいのめり込んでしまって(笑)。
-本当に夢中だったんですね(笑)。
石井:えぇ。そこから自分自身が、なぜ考古学を学びたいのか、なぜ大学に行きたいのか、しまいには、なぜ生きているのかを悩み始めて、わからなくなったんですよね。「死にたい」「死ぬしかない」というところまで行ってしまった。
-あぁ。かなり思い詰めてらしたんですね。
石井:そんなどん底の精神状態を救ってくれたのが岡本太郎の言葉でした。絶望のなかで辿りついた東京都現代美術館の図書室で、手に取った図録に「絶望を彩るのが芸術だ」と書かれていた。それで「あぁ、俺なんかでも生きていていいんだ」と。
なので、僕にとっての岡本太郎は、研究対象ではないんですよ。研究をしているというよりも、命の恩人への恩返しをしている感覚ですね。
-あぁ。研究というより、恩返しっていうのは素晴らしいですね。
石井:岡本太郎の言葉に命を救われたときに、ふと「自分はどこから来て、どこへ行くんだろう」と問いが生まれ、それを知る一つの手段が考古学なんじゃないかと思ったわけです。
-悩んでいたことが全てつながったんですね。
石井:ただ、自分自身のルーツを知るなら、遠い異国のエジプトではないんじゃないかと(笑)。自分のルーツは、縄文にあるんじゃないかと。岡本太郎の縄文土器論を読んでいたので、全部がつながって「エジプトではなく縄文時代の考古学をやろう」と思ったわけです。
普通の考古学者は、小学生の頃に土器を拾ったり、発掘現場を見に行ったりして考古オタクになり、考古学にのめり込んでいくわけですが、僕の場合は、岡本太郎きっかけですから、そこからかなり距離があるんですよね。大学に入ってその違いにびっくりしました。
-岡本太郎さんから考古学を学ばれる方は稀有ですよね。
石井:スタートが岡本太郎の縄文土器論ですから、僕の立ち位置はどちらかというと人類学の方が近いのかもしれません。岡本太郎はパリ大学で、マルセル・モースという著名な民族学者の弟子になり、人類学を学んでいました。彼はそういう視点から縄文を語る。つまり、考古学ではなく、人類学と芸術から縄文を語ったのが岡本太郎だったわけです。僕が勘違いしたのは、それが縄文時代の考古学だと思った、ということなんです(笑)。実際に大学へ入学し、考古学の世界に入ると、それがまるで違うということに気がついた。
-壮大に勘違いされていたわけですね(笑)。
石井:学生時代は自分自身でも絵を描いていましたし、芸術の実践と考古学が自分の中では両立しているし、自分の中ではごく自然につながっていたので、あえていうなら「芸術考古学」とでも呼ぶべき研究分野になるのかなと思い、今のところはとりあえず、この肩書きで研究を続けている次第です。
-岡本太郎さんと考古学の研究、これからの挑戦について教えてください。
石井:学生時代に、岡本太郎記念館に入り浸って、岡本敏子さんには本当に家族のように接していただきました。僕にとっては親友でもあり、もう一人の母のような存在でした。
岡本太郎は、今でこそ、正当な評価をされてきてはいますが、亡くなった1996年当時、変人のように扱われることがほとんどでしたし、彼が書いた縄文土器論も、考古学の世界では約半世紀にわたって無視され続けていました。これからも岡本太郎が本当にやりたかったこと、やりきれなかったことを、今度は僕の仕事として研究し続け、岡本太郎の芸術と思想を、世に広めていきたいと思っています。
これからの世界で失いたくないもの。
-では、最後の質問です。石井さんがこの先の世界で失いたくないものはなんですか?
石井:「生きがい」ですね。自分自身が、意にそぐわないことをせず、生き方を貫くこと。そのためにも「生きがい」というのは失われてほしくないと思います。
Less is More.
現在の万博との比較や批判ではなく、1970年の大阪万博が、どのような思想とどのような価値観によって開催されたのか。
それらを振り返ることで、現在の万博の見え方も変わるのではないか。
現状を点すわけでなく、先人がどのようにこの「祭」を開催したのか、今一度私たちは見つめ直してみることから考えたいと思う。
石井氏出演イベント情報
(おわり)