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偶然や運に左右されない精神を持つために。データの果てにあるもの 。麻雀数理研究会とつげき東北氏・nisi氏インタビュー。

テーブルゲームの中でも、古くから親しまれ、現代でも愛され続ける麻雀。熱狂するファンは現在でも後を絶たず、卓上に人生を投影する者も少なくない。そんな中、ツキ・勘・流れ……こうした抽象的な概念を覆すかのような研究をしているのが『麻雀数理研究会』だ。偶然性が高く、運不運で勝ち負けが大きく変わるとされるテーブルゲームである『麻雀』に、データサイエンスの手法を持ち込むことで、論理的に勝ち筋を掴もうとする、とつげき東北氏・nisi氏にお話を伺った。

〈プロフィール〉
とつげき東北:1976年兵庫県生まれ。麻雀の科学的研究の第一人者で統計学の専門家。元東京大学非常勤講師。東北大学工学部通信工学科卒、大学院を中退し中央省庁へ入省。現在は国家機関を離れ、主にエンジニア・著述家として活動。2004年当時、講談社現代新書より史上最年少で、シリーズ累計17万部のベストセラーとなる『科学する麻雀』を出版し、従来の「文学的な」麻雀の世界を「理工学的」に改革した。現実的でロジカルな思考法や仕事術でも有名。司法行政の運用から政治経済思想哲学まで、幅広い知見を持つ。
主著/『科学する麻雀』(講談社現代新書)『場を支配する「悪の論理」技法』(フォレスト出版)Twitter:@totutohoku / Note(とつげき東北):https://note.mu/totutohoku/Note
  
nisi:1986年大阪府出身。京都大学大学院理学研究科卒業。2009年にブログ「とりあえず麻雀研究始めてみました」http://epsilon69399.blog20.fc2.com/を開設し、同時期から麻雀研究を本格的に始める。牌譜から統計処理を行うプログラムや、独自のシミュレーターなど、多数の研究ツールを開発し、成果を発表・販売(複数の有名な「データ系」麻雀戦術書の基データを提供)している。
Twitter:@nisi5028

麻雀を科学的に研究する人の誕生。

ーそもそもなんですが、お二人は、なぜ麻雀にハマられたんですか?

nisi(以下N):大学時代に教えてもらい、インターネット麻雀の先駆け的な存在である『東風荘』で麻雀を打ち始めました。

ーいわゆる雀荘に通って、ハマっていかれたわけではないんですね。

N:それこそ、とつげき東北さんの著書『科学する麻雀』を読んで強くなった世代で、雀荘はないです。

とつげき東北(以下凸):私は、世代的には「手積み」から麻雀をはじめました。ド田舎の偏差値44の公立高校に通ってたんですけど、ヒマだし麻雀でもやろうかと。最初はクソつまんなかったんですよ。周りは「流れが悪いな」とか「運がきてない」みたいな話ばっかりしてて。低俗でバカげたゲームだなと思っていましたね。本格的にハマりだしたのは1997年ごろで、nisiさんも言及していたインターネット麻雀『東風荘』にのめり込みました。

ーインターネット麻雀に移行したのは結構分岐点だったんですね。

凸:コンピュータで麻雀ができるので、牌譜(将棋でいうところの棋譜、対戦のプレイ履歴のこと)が残るようになったんですよ。小学生の頃からプログラムを書いてた私は、牌譜の情報を集計してデータにし、強くなる方法を確立しようと考えました。データ集計ツールを一般公開したあとは、打つよりもむしろ研究がメインで本格的に没頭しましたね。実はゲームとしての麻雀は、全然好きじゃない(笑)。今は、誘われてもやりません。現在「ノーレート、禁煙」の麻雀荘「新宿フェアリー」を経営されている、「女流プロの伝説」渡辺洋香プロや、Mリーガーなんかは仲が良いので、「別扱い」でセット麻雀などします。言うまでもなく、堀江貴文さん(ホリエモンさん)と勝間和代さんが主宰された麻雀大会のゲストなどには、喜んで馳せ参じましたよ(笑)。

ヨーコ会長、水口プロ

↑写真は左から、水口美香プロ、とつげき東北氏、渡辺洋香プロ。

Mリーガー

↑Mリーガーの皆さま。写真は左から、鈴木たろうプロ、ASAPINプロ、とつげき東北氏、園田賢プロ)

ー研究題材として麻雀を選ばれたのってなぜだったんですか?

凸:当時「戦略」とされているものの全てが、まるで使えなかったんですよ。非常に単純な確率論から見ても、間違っているものが大量にあって、これはきちんと間違いを指摘しなきゃいけないし、そもそもデータ取らないと実証できないだろうと。これは麻雀の専門用語なので、わからない方は読み飛ばしてほしいですが、「南場2局で負けている親」が、すごく大きな役をほぼアガれそうなのに、相手が序盤に1つだけ「ポン」という簡単な行動をしているだけで、「危険だから攻めてはいけない」みたいに書いてあって、今の麻雀を知っている人からしたら、ある意味すごいギャグです。研究をしなきゃヤバイ、と思いましたね。

ーその研究にnisiさんが後に参入されて「麻雀を科学的に研究する人たちの会(「麻雀数理研究会」として活動)」が誕生したんですね。

凸:現在の私は、時間や仕事の優先順位の都合でメインの研究担当からは外れましたが、後を継いでnisiさんが発展させてくれています。私も研究方針の提案や、一部の統計学的アドバイスなどで、研究者の支援を続けています。データ提供の収益化(=研究者の育成につながる)についても、しっかりと音頭をとっています。

N:とつげき東北さんの書籍『科学する麻雀』が2004年発売。それ以降で、麻雀業界全体もかなり打ち方が変わりました。にもかかわらず、2021年の現在に至るまで、他にもきちんと研究されている方はあまりいません。僕が麻雀研究を継いだのは、テーマの新規性やゲーム情報学的な発展のみならず、プレイヤーとしても合理的に強くなる方法を求めていたというのが理由ですね。

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↑実際のデータは、独自に開発したツールを使って集計する。『東風荘』『天鳳』『MJ3』など、複数のオンライン麻雀ゲームにおいて別々に研究している。

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↑データの可視化も。

ー実際に勝率はあがるものですか?

N:はい、あがります。データを使わないと、ある場面で「Aした方が良いか、そうではないか」と迷った場合に、毎回正しい選択をすることが困難です。偶然うまくいったり、失敗したりの繰り返しになりかねません。そこでデータを使うことにより、比較的客観的に実力向上ができます。僕だけでなく、周囲の友達も実際にそうでした。

ー他にも研究している方もいるんですか?

凸:代表的な例では、HEROZ株式会社の水上直紀さんは、『爆打』という麻雀の自動打ちAIを、東京大学大学院博士課程時代から研究開発していますし(関連記事:https://www.wantedly.com/companies/heroz/post_articles/118413)、比較的最近では、あのマイクロソフトも麻雀AIの研究をしていますね。私たちと角度が違って、水上さんの『爆打』も、マイクロソフトの麻雀AIであるスーパーフェニックス(関連記事:https://gendai.ismedia.jp/articles/-/67507)も、機械学習(いわゆるAI)のシステムなんです。でも、私たちは統計学やシミュレーションを基本としているんですね。

ーそれはなぜですか?

凸:現状だと、ビッグデータの中から、どうやって活用できる知見を取り出すかというときに、「人間が使いやすいもの」を取ってくる必要があります。例えばですが、「A駅からB駅に最短で行きたい、どうすれば良いか?」と思った時、ずらーっと全国の鉄道車両の時刻表を渡されてもわけがわからない。そうじゃなく、「A駅からB駅なら、こうだよ」という答えが欲しいわけです。麻雀の場合に照らし合わせると、「プレイヤー視点での解析」、つまり「勝ちたい。この状況では、どうすれば勝率が高くなるか」という問題に落とし込んだ「答え」が要ると思うのです。ディープラーニング等の実力は、おそらく最終的にはそういう「わかりやすい統計学的研究」に基づくものよりも強くなっていくでしょうけど、結局「特定の場面で、どうすればいいか」をまとめあげないと、単に強いAIができました、で終わってしまいます


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↑nisi氏が開発した旧シミュレーター。

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↑同、新シミュレーター。かなりUIや計算方法が進化している。

始まりは、『科学する麻雀』

ーそれにしても、『科学する麻雀』は、業界全体にとってかなり影響があったんですね。

凸:手前味噌ですが、麻雀の時代を2つに分けるとすれば、一番大きな技術的断絶は『科学する麻雀』の以前と、以降かなと思っています。書籍をリリースした2004年頃は、すごい叩かれたんですね。2ちゃんねるに叩き専用スレッドが60以上立つほどに(笑)。麻雀を「合理的に」考えるという行為自体に抵抗感が強かったようで、「麻雀はそんなに薄っぺらいゲームじゃない」「最終的に全員が合理的で同じ打ち方になったらつまらない」なんて散々言われました。当時は「データサイエンス」という言葉も一般的でなかった。データの有用性が大勢に認められたのは、2010年代半ばくらいでしょうか。業界全体のレベルや意識が上がりました。

ー麻雀を科学的に見る方々は、いわゆる「場の流れ」ですとか「気合」みたいなものを信じるプレイヤーたちを「オカルト派」としていますよね。

凸:そうですね。「デジタル派」の対義語のように言われているようです。対義語だとするなら、世の中は全てデジタルであるのは今のところの物理学的事実ですから、まあ、物理学を変に疑う人たちを「オカルト」と呼ぶのもわからなくはないです。怪しい健康食品みたいなものです。

ー「デジタル」が浸透するまでには、かなりの攻防というか……理解を得るまでの道のりがあったのではないでしょうか?

凸:攻防というか、話にならないレベルですね。基本的にゲーム情報学は数学的(データサイエンス的)に語らないと、哲学のような無償の饒舌に陥ります。データや根拠を出す人がまったくいませんでした。いたのは、間違った指摘をする人くらいかな。

N:『科学する麻雀』が出版されて、そこで世界で初めて麻雀が数理的に研究されていましたが、麻雀業界からは『数字が好きならパチスロでもやれば?』といった噴飯ものの指摘が公式にありましたよね(笑)。

凸:こっちは小銭を稼ぐギャンブルに興味があるわけじゃないんですよ(笑)。大学の先生方からは研究成果の意義を理解していただき、学会にお呼ばれしたり、東京大学での講義に推薦してくださいましたが、「物事を厳密に考える快楽」は、当時も、今でも、多くの人には理解されていません。例えば麻雀の世界に限らず、人文社会科学系統の論文の多くは非常に曖昧で、仮定が非現実的すぎます。以前、あるきっかけで経済学系の論文を「理系的厳密さで」書いてみたら、査読を通って世界的に有名な論文誌に掲載されてしまい、「こんなもんか」と複雑な気持ちになりました。

N:僕はいわゆる「オカルト」派の人について、あまり意識していません。研究の邪魔立てをするなら理論に基づいて反撃はするかもしれないですが、関係ないところで非科学的なものを信じるのは、「どうぞご自由に」みたいな感じです。

ー実際にデータを取り入れることで、どのように打ち筋が変化したんですか?

凸:当時「攻める姿勢を崩すな」といった精神論や「相手の運を奪うことで勝つ」といった妄言が、「戦略」としてまことしやかに語られていたんですよ。私のデータから導き出された「勝率を高める方法」は、そういうものとは一切違います。例えば、戦略上不利になるなら、「攻める姿勢」などというものは無視して、「ベタオリ」(自分のアガリを諦めて完全に手牌を崩し、勝負から降りて失点を防ぐこと)を推奨します。失点が減るだけで、みんな本当にすごく強くなった。「ベタオリ」の打ち方は、現在では1つの当然の技術として定着しています

物語性を否定した末に。

ー一方で「流れ」ですとか「気合」ってものは、小説だとか漫画、映画などで、無数の「物語」を描くための側面もありましたよね?

N:僕自身は、麻雀に関してはそういった作品を読んでないですし、影響もほぼ受けていないんです。なので、どうでもいいというか(笑)。

凸:「流れを信じる」って、幽霊を信じたり、うさんくさい新興宗教にハマるのと同じようなものですよね。「流れ」は、言い訳としても便利なんです。失敗して失点しても「あの流れだったら、攻めて正解だった」とか言う人が多かったですから。そういった「流れ」にまつわる幻想や「言い訳」を断ち切って長期成績を客観的に可視化したその先に、実力が身につく。「運」の要素を語るのは、確固たる実力を身につけた後のことです。大抵どんなゲームにも運の要素は介在しますが、実力を持たない(極端に言えばルールも知らない)人とやったら100%近く勝てますからね。ルールを覚え、実力をつけ、そこで統計学の「正規分布」くらい理解してから「運」を語らなければ、雑魚かな(笑)。私の集計ツールが出るまでは、「麻雀の現在の実力を可視化する方法」すらなかったんです。現在の実力がわからないと、打ち方Aから打ち方Bに変えた時、本当に強くなったかがわからない。だから、「物語」としては、打ち方をBに変えて、さらにCを取り入れて……としていくと「どんどん強くなっていく感じ」になる。だけど、実際に客観的な成績を出させると、物語はしばしば無に帰します

ー一方とつげき東北さんは、桜井章一さんという雀士をフェイバリットとしてあげています。

凸:はい。桜井章一さんがかなり昔に書かれていた打ち方が、実は現代風なんです。正しい戦術って、正直、当時はほとんど見たことがなかったので、驚きました。私たちがデータを基にして打ち立てたものと近い部分が相対的に多かった(もちろん、違う部分もありましたが)。それは、すごいなと思います。

ー桜井さんは、書籍もたくさん書いてらっしゃいますが、それこそ自己啓発的な精神論ですとか物語として書かれているものも多いので、ちょっと意外ですね。

凸:そこはまあ、あれだけのポジションになれば、ビジネスとして出版社も放っておかないでしょうね。ただ、勝者による精神論は、基本、手放しに使えません。桜井さんがやったら、成功したとしても、万人に再現性があるとは限りません。凡人が桜井さんのマネをしても、桜井さんにはなれませんから、精神論や物語性というのは、必ずしもうまく機能しないように思いますね。

N:僕は桜井さんのことは失礼ながらよく存じ上げませんが、一般的に売られている自己啓発本や仕事術の本などのビジネス書を読んだからといって、とたんにビジネスができるようになったという話は、割合として、あまり多く聞かないように思います。成功者の「物語」を単に後追いすることには、さしたる効果が見込めない気がします。

凸:私たちの基本スタンスは、あらゆる事象をなるべく現実的・客観的に、目的(勝率の向上など)に近づけるため定量化しようとするものです。ようやく業界全体でも、この考えが一定程度定着してきました。もちろん、真逆の人もまだまだいます。さらに言うと、実は最近定量化されていない、言ってみればまさに「流れ」的なものを背景とした考えが復活してきているんですよね。「流れ」と言ってしまうと周囲から笑われますが、直接的ではないにせよ、「何のデータにも基づかない直観」こそが大事な場面、「私は(データはないが)その答えを知っている」みたいな発言をネットなどでしばしば見かけます。

ーそれはなぜとお考えですか?

N:究極、チェスや将棋、ポーカーのように、AIが世界最強になってしまうと、結論は「人間が打つ以上、運だよね」ってことになりかねませんよね。そうなっては困る、人間が打つことの意味付けが欲しい、物語性が欲しい。そういうものへの揺り戻しというのはあるかもしれませんね。

凸:そうですね。世界的にもゲームはもちろん、政治から金融(ヘッジファンド等)に至るまで、人間よりAIの判断の方が圧倒的に優れている場面があることが証明されつつあります。そんな中で、大衆はいまだに物語=ドラマを求めてしまう。結局、オカルトであっても、ある種「自分に手が届く気がする」ものが愛されているのかもしれませんね。オカルト的なマンガで言えば、福本伸行先生の『アカギ』などが超人気ですよね。

ーざわっ…。

凸:それです(笑)。普段は麻雀のマンガなど馬鹿馬鹿しいから読まないのですが、『アカギ』は書評の仕事のために、読んだことがあるんですよ。

↑とつげき東北氏が寄稿した『ユリイカ』2009年10月号。

凸:ただこう、色々なストーリーはあれど、最後に主人公が何か不思議な超能力めいた現象によって勝つだけの話、と言えばそう言えてしまうんですよね。

ー確かにアカギに限らず、麻雀作品は理論ではなく「よくわからないけど流れを引き寄せて勝つ」というようなストーリーにも思えますね。

N:そうなんですか?

凸:そうです(笑)。私が高校時代に麻雀マンガを読んだ瞬間から「うわぁ、子ども向けでつまんねぇ……」の連続でした。しかし、多くの打ち手は、アカギのような主人公の姿に「自分自身も何らかの方法で、こういった結果を得られるようになるかもしれない」といった希望を無意識に込めて自己投影しているイメージした。そういう願望は当時だけでなく、時代を通じて存在する。だから最近また、「流れ」と呼ばれないけど「実質流れ」みたいなものが復活しているのではないですかね。例えば、2004年当時にあった、不勉強で赤面すべき反応の単調な反復であるかのように、統計データを出すたびに「誤差の可能性」などを指摘するのみで、「自分の打ち方の正当性」を頑なに信じてやまない人たちが出てきたというのはあるかもしれませんね。

幻想を超えて、運にたどり着く。

ーデータを積み重ねた先に実力があり、結果的に「運」が勝負の決め手ということですと、それって楽しいものですか?

N:僕は、立場的には特殊で、打ち手かつ研究者なので、研究やシミュレーションすること自体が楽しいというのはあります。局面の適切な判断を基に勝率を蓄積していくこと自体がプレイヤーとして楽しめる理由でもある。そういう意味で、打つこと自体も楽しんでますね。付け加えて言えば、「理論だけ」追及していても、結果を伴わなければ説得力に欠ける可能性もあることから、実際に自分も強いプレイヤーでいることも重要かと考えています。

凸:私にとっては、運の要素が強い麻雀というゲームは、全然楽しくない(笑)。私が麻雀をやめた理由はまさにそれです。「ある程度以上」になると、もう運に近似できる。わかりやすく「受験」に置き換えますと、「偏差値50」の人が2500回受験したとして、「偏差値70以上」の学校に25%で受かりますし、「偏差値30以下」の学校に25%で落ちるってほどに偶然性が強いんです。そんなのもう「受験」じゃない。年間のプロのリーグ戦が、2500試合どころか、40~50試合などです。これ、サイコロを振っているようにしか見えないです。

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↑(とつげき東北著『科学する麻雀』(2004,講談社現代新書)より引用)

ーあぁ、勝敗を決めるのに時間がかかるのに、圧倒的に対戦を重ねない限り、双方の運だけのゲームになっていってしまうと。

凸:「運だけ」というわけではないので補足します。より強い打ち方があるのは確かなんです。ただ、上級者同士がそれを、現実時間で実力として結果に出す方法が今の所ないんです。運の要素でたまに勝てるというのは、入門者にも楽しめるという観点からすると、ゲームとして優れた点でもあるとは思いますけどね。

ー「実力」を競い合うという点で難しいとしても、コミュニケーションツールとしての機能ならどうですか?

N:僕の場合、麻雀そのものではなく、研究結果を発表することが1つのコミュニケーションの形とは言えるかもしれません。

凸:私自身は、学生時代は「徹マン(徹夜で行うマージャン)」なんかもしょっちゅうしましたし、分からなくはないですね。ただ、今はオンラインのゲームをはじめ、新しい遊びやツールがたくさんありますよね。主たるコミュニケーションツールとして使っているのは少数派に属するんじゃないかな。

N:オフ会なんかも参加したこともあるけど、思っているほどは楽しく感じませんでした。一番つらいのは、実際の麻雀の牌を取ったりする行動によって、すごく肩が凝ったりしたことです(笑)。

凸:最近はVtuberとか、女流プロとかを中心として、コミュニケーションに使っているのは見かけますね。コンテンツとして収益モデルになるので、単にサイコロを振っているよりずっと優れていますが、結局「実力」の存在は放置されたままです。

定義も決まっていない「運」に、僕らは怯えている。

ーお二人の考える運ってなんですか?

凸:「運」自体は、あるんですよ。一定の知的操作によって、確実にあると言えます。ただ、「まず、定義をしよう」って話なんですよね。定義をしないと存在の有無の計測はできない。幽霊も定義が決まってない状態では、いるもいないも判別できないですね。ある種の人々が「幽霊が怖い」って言うのは、何かしら謎です。

N:「運」とか「流れを変える」って、過去をきちんと受け入れて、今この瞬間、未来に向けてどう動くかってことでしかないと思うんですよね。なので、自分の実力や能力、努力がベースなんです。そこから先が運次第……サイコロを振って終わりって思っています。過去起きたこと、これから起きることは仕方がないけど、その瞬間の最善手は尽くしていきたいってことかな。

凸:サイコロはある=運はあるんです。ただ、データを積み重ねていけば、極端な話ですが、自分のサイコロはどの目が出やすいか、相手のサイコロと比べて性能が良いから戦いやすいのか、と検討・対策できますよね。オカルト派は、与えられたサイコロの中で出る目をコントロールしようとするけど、私たちの研究の方向は、出た目の分布を把握したうえで、分布関数を推測し、それを受けて、その後さらにどうするか、ということなんです。

ー運というものに翻弄されることのない、考え方ですね。

N:答えになっているかわからないんですが、まぁ起きたことは、しょうがないとして、どうやってのんびり楽しく人生を過ごすというか(笑)。

凸:よく言う「チャンスが来る前に準備しておく」っていうのとも似て非なるものなんですが、「選択肢」をどれだけたくさん想定して、用意するかって話ですね。例えば最悪の場合の選択肢も想像しておけるか。仮にサイコロで1が出てしまうと大損するけど、6が出ると大金がもらえるとき、サイコロの出目の分布からの計算によって「どうするか」を選択する。そういったあらゆる選択肢をストイックに積んでいく。その手段としてのデータであり、研究なんです。フワッとしたまま都合良く「運」だの「流れ」だので片付けるのは簡単ですが、粗野で野蛮です

ーお話をお聞きしていると、最悪の場合でさえ冷静に想定しているのはすごいですね。

凸:最悪、死ぬだけですから(笑)。現実性・客観性を極めていくにつれ、ある意味逆に、人生に執着しなくなるのかもしれないですね。

ーちょっと不思議なんですが…今のお話を聞いていると、データを積み上げた先に、精神論に至っているようにすら感じますね。

凸:あぁ。言われてみればまあ、そうかもしれませんね。ある種アカギよりアカギっぽいと言われたこともあります(笑)。最近、失うものが何もないから犯罪などをしてしまう人のことを、「無敵の人」などと呼んだりしますが、私は「別に、失うといっても、せいぜい死ぬだけだよな~」と達観しているので、「逆に無敵の人」を名乗っています。投資で1日700万円溶かしたことがあるんですが、何も感じませんでした。その日の夜はゲームに熱中してました。

ールートが全然違うのに、たどり着く人間の本質みたいなものは近いのはドラマチックでもありますね。

凸:みんなが運だと思っていないことの多くもまた、運なんですよね。例えば、イケメンとそうでない人で生涯賃金に10%以上だったかな、それくらいの差が出るってアメリカの研究があります。それは、生まれの「運」ですね。「運」が人生にすごく影響する。そこをちゃんとコントロールして改善したいなら美容整形でもすればいいんですが、美容を含む全てのことを「よりよく」はおそらくできない。だから、ある程度は運を受け入れて、動いていくほかない。愚痴っていても、雨乞いをしていても、何の解決にもならないですよね。私たちは麻雀のデータを積み上げた結果、(上級者同士のように「運」の領域に到達するまでは)どんどん強くなって、勝てるようになることを知っている。

N:実は、公開していないデータで、麻雀においてかなり実力差が出そうなものを最近計算しました。ストイックに積み上げることで、それまでは「運」だった領域を、「実力」の領域にまだまだ変えていける余地は残っているっています。

これからの世界で失いたくないもの。

凸:失いたくないもの……という答えになっているか分かりませんが、私は、フェイク(嘘)を正す表現を止めないで欲しいなと思います。私は「正しくないもの」が大嫌いで。たくさん勉強をしたのも、書籍を読んだのも、フェイクを見抜くための基本的な行動に過ぎません。世界から「本当のこと」が失われてほしくはないですね。

N:僕は、自分の存在意義を失いたくないですね。自分を必要としてくれている人。僕ら研究も必要としていくれている人がいるから熱意を持って続けられるんです。

Less is More.

私たちは、いつも見えない運に翻弄されて生きている。時に例えば時代のせいにしたり、状況のせいにしたりしてしまう。麻雀数理研究会の2人の話を聞いていると、非常に淡々と時に毒を交えて、ただあるがままを受け入れながらも世界の理に抗うような姿勢を感じた。冷静にデータを積み上げた先に幾多のオカルティックな物語を超える精神が獲得できるなら、それはとてもロマンティックなことでもあるのではないか。そして、それは今の時代にとても必要な精神なのではないかと思った。

(おわり)



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