ジェンダー”論”と向き合ううえで、いかに現在地を見失わずにいられるか。ヒラギノ游ゴ氏インタビュー
SNSでは日々、ジェンダーにまつわるトピックが取り沙汰されている。反面、それらのトピックに対する判断材料や指針となる知識や教養が十分に広まっているとは言い難い。
個人のレベルでこういった状況がある以上、企業・組織としてもジェンダーにまつわる種々のアップデートが停滞を余儀なくされうる。迷えるリーダーたちはいかにして現在地を見定めて、最初の一歩を踏み出していくべきなのか。
そのヒントを探るべく、ジェンダーをはじめとしたソーシャルイシューについて執筆するライターのヒラギノ游ゴ氏にインタビューをおこなった。
ヒラギノ游ゴ:ライター 音楽 ジェンダー論 ポップカルチャー批評 平成の遺物収集
Twitterアカウント / https://twitter.com/1001second
ジェンダーに理論として向き合うこと
- 今日は、ジェンダーやフェミニズムにまつわる課題とどう向き合っていけばいいか、ヒントになるお話を伺いたいと思います。
ヒラギノ:よろしくお願いします。本題に入る前にまず僕のスタンスをお伝えさせていただくと、自分をジェンダー論の”専門家”と称するつもりはありません。こうしてインタビューを受ける側に立つことも試験的に始めた段階で、今後やめる可能性も十分にあります。あくまで学者の水準には至っていない、在野のアクティビストとしての発言であるということをご理解いただきたいです。
- なるほど。その意図はどういったものでしょうか?
ヒラギノ:大前提として、ジェンダーやセクシャリティにまつわる物事は、ジェンダー”論”やクィア”スタディーズ”、女性”学”、男性”学”といったように、学問として確立しているものだということを改めて強調したいです。
「絵を描くのが好きな人」と「美術の教員免許を持っている人」のどちらが上で下かというのはありませんが、少なくとも前者を高校が教員として雇うわけにはいきせんよね。ところがジェンダーに関しては近いことが起こっています。
単にジェンダーの話題に”興味がある”だけで、学問としてのジェンダー論と十分向き合わないまま専門家のように振る舞ったり、そういったジャンルを扱うメディアや事業に関わったり。最近はジェンダーやフェミニズムにまつわるマーケットの規模も成熟してきているので、学問としての素地もなく「トレンドを押さえておこう」程度の意識で参入してきてめちゃくちゃなことをやっている人や企業は少なくありません。
僕自身、大学4年間でだけジェンダー論の高等教育を受け、その後は在野。微妙な境界線の上にいる1人だという自覚があります。「絵を描くのが好きな人」の立場だからこそ、「あなたが信頼しているそのコンテンツは、十分なトレーニングを受けていない人の作ったものかもしれないよ」という話をしたくて、今回このご依頼をお受けしました。なので、目的の半分はたった今済んだんですよ。
この記事を読んでくださっている皆さんには、誰を、どのメディアを信頼するかを十分に精査してほしいです。僕の記事だって丸々鵜呑みにせず疑ってほしい。
また、今述べたような背景があるので、僕はジェンダー”論”という言葉を強調して使っています。”論”なんだ、学問なんだと。
- 学問であるという視点が抜け落ちて、個人の感覚で発信されることを危惧していると。
ヒラギノ:一般の個人であれば単に一人ひとりの知識不足なので、ネット上で何か至らない発信をしたとしても、批難を呼ぶだけで済む話だと思います。ただ、このジャンルを仕事にしている人やインフルエンサー的な影響力を持った人の場合はそうはいかない。社会的責任が伴うはずです。
僕は自分の記事でも常々書いていますが、一番に信頼すべきは学者さんなはず。なので僕は、読者が学者さんの書いた本を手に取るきっかけを作るために活動している意識でいます。
で、そこを押さえてはじめてその先の話ができるわけです。つまり、学者さんの中にも「ちょっとどうなんだろう」という論調でアカデミシャンから敬遠されている方もいるよね、という話です。でも、そういう方を見分ける目を養うためにも、やっぱりまずは学者さんの書いた本を読んで基礎を身につけることは避けられないと思います。十分学習を積んでいないインフルエンサーよりはずっといいはずです。おすすめの参考文献を記事の最後にご紹介するので、チェックしてみてほしいです。
- 情報があふれている世の中で、正しい知識へと導いてくれるのはありがたいです。
ヒラギノ:「正しい」というのは今ものすごく取り扱い注意な概念ですが、少なくともジェンダー論は学問なので、用語の定義や定説があります。そういう意味では「正しい」知識と言えるでしょう。で、これは「勉強しなくちゃいけない」という話じゃなくて、たくさんの先人が議論した末に蓄積された決まりごとがすでにあるので、それを頼れば楽じゃない? 都度都度ゼロから個人個人の感覚や気持ちを試されなくて済むよねという話です。
そもそも土台の知識や言葉を知らない状況で自分の意見をひねり出すのには無理がありますよね。単純なことなんだけど、ジェンダーにまつわる話題だと、個人個人の人間性と結びつけられて見失われがちです。
-日々ジェンダーにまつわる新しいトピックが浮上しますよね。それら一つひとつに対して、都度都度ゼロから自分の感覚や気持ちでぶつかるのではなく、理論を頼りにすればもっとクリアなはずだと。
ヒラギノ:あとなんていうんでしょう、”人間性一本勝負”みたいにならなくて済むというか。ボロボロにならずに健康的に向き合えるというのも大きいと思います。とにかく「私はこう思う」という気持ちだけのやりとりでは議論になりません。
例えば、痴漢被害に遭ったことをTwitter上で告発した人について、反射的に「でもこの被害者の人の言い方もなんか癇に障る」という感想を持った人が、ヴィクティムブレーミングやトーンポリシングの概念を知った上で考えを深めていくのと知らないまま考え続けるのとでは、思考の正確さや効率に雲泥の差が生まれます。
何十年も前に確立した理論を周回遅れで追う格好になる。何度でも言いますが、ジェンダー論は学問であり、経済学や心理学や哲学同様、理屈も定説も歴史もある。
英語の勉強をする上で、わざわざ過去形や疑問形みたいな概念自体を自力で発見するところから始めないのと同じだと思っていて。英語学習と一緒で、ジェンダー論の分野でも参考書をあてにしようよ、ということを僕はずっと書いています。
- ジェンダー論や学問としてのフェミニズムというものをざっくりと説明するとしたら、どう答えていますか?
ヒラギノ:繰り返しますが、この先の内容も一介の在野のアクティビストの言葉と思って聞いてください。重なり合う部分も多いですが、ジェンダー論はその名の通り社会的・文化的に形成される性であるジェンダーというものについて考える学問。フェミニズムは「男女の不均衡の打破」を目指して生まれた概念といった説明をよくします。ただ、歴史を辿る中で単純な「男」と「女」の二項対立ではないよねという段階へ発展してきたわけですが。
そして、男女の不均衡の正体としてよく指摘されるのが「家父長制」というやつです。女が世話役として男を立てるというシステムが、恐ろしいことに世界中で、不思議なことにあらゆる人種や国を超えて根付いています。
一口にフェミニズムと言ってもいくつかの派閥に分かれていて、それぞれのアプローチでこういた不均衡の打破を目指しています。といっても個人レベルでは明確に「自分はこの派閥」と白黒はっきりするものでもなく、それぞれのスタンスが混ざり合う部分もあるでしょう。
- 派閥というのは?
ヒラギノ:代表的なところでリベラルフェミニズム、ラディカルフェミニズム、マルクス主義フェミニズムなどがあります。自覚として、僕自身は割とわかりやすいリベラルフェミニズムの人間だと思っています。男女の不均衡を、制度や社会の仕組みのアップデートで解決していこうというスタンス。それぞれの詳しい定義はぜひこれを読んでいる皆さん自身に調べてほしいです。
これらの語彙の使われ方は常に変化しており、そもそも今この分類にどれだけの効力があるのか、という議論も現在進行系であります。この辺が気になる方は上記の派閥について調べたのちに「TERF」について、特にその名称の是非の議論について調べてみてください。
派閥やその他の分類に関しては、いずれにしても誰か1人の見解を鵜呑みにしただけではとても足りない部分です。ただ、けっして雲を掴むようなものではないので、調べはじめたらだんだんと解像度が上がっていくと思います。
そして大事なところですが、上に挙げた代表的な派閥のどれも、フェミニストのうちのマジョリティではないと言っていいと思います。
- というと?
ヒラギノ:派閥の存在自体を知らない、フェミニズムやジェンダー論の素地のない人々による、それぞれの価値観による自分派閥のようなものが大半を占めているだろうということです。それに、知識の素地がある人の中にもさまざまなスタンスの違いがありうる。この状況を指して「1人1派」なんてよく言われます。
すでに確立されたジェンダー論のロジックを知らないまま個々人の感覚で発信されたメッセージを、アカデミシャンたちが遠目に見ながら冷や冷やしている、という状況は一種あるあるじゃないかと思います。せっかくフェミニストの自覚があるのに、思いっきりフェミニズムと逆行することを言っているな、といったような事態ですね。
これは「ちゃんと勉強しろ!」という話ではなく、単純に自分が信じているものに反する言葉が自分の口から出てしまう状況を避けるために、きちんとジェンダー論に触れることは何よりの近道だということで。ジェンダーの話題に興味があるなら、触れないほうがいい理由が思いつかないんですよ。
-きちんと学問としてジェンダーと向き合わずに発信を続ける状況はあまり好ましくないと。
ヒラギノ:個人レベルでどうというより、ジェンダー論やフェミニズム全体にとっての課題という感覚です。個人が個人をジャッジする状況はなんであれ好ましくないので。ひとつのものごとが広まる過程で、深い知見のない人の数が増えるのは自然なことですし、僕が断罪する筋合いもない。先に言ったとおり、仕事にしているわけでもないなら社会的責任を問うのも違うと思うんですが、状況として最善ではないだろう、という感じ。
ただ、「ツイフェミ」みたいな言葉を使ってアンチフェミニストなツイートをしているアカウントたちが思い描く「フェミニスト」はこういう、きちんと学習を積んでいないまま感覚で発信している人たちを基に作り上げた、ほとんど実在しない架空の「フェミニスト」なんだろうなというのはよく言われていることですし、僕も概ね同意です。そういう非実在「フェミニスト」と本来的なフェミニストのイメージの乖離が甚だしいことも、学習者を増やしていくことで改善していけると思っています。
私たちは「勉強中」である。
- ただ、「フェミニスト」って、なかなか自分で言いづらくもありますよね。
ヒラギノ:前述のような非実在「フェミニスト」を思い描いている人が少なくないので、名乗ることに抵抗を覚えることはイメージできます。そういう背景があり……そうですね、フェミニストとしてキャリアの長い先輩方はもう見慣れた光景だと思うんですが、明らかにフェミニズムに関わる発信している人が「自分はフェミニストではないけど」と前置きをする、みたいな事例はこれまでに何度も何度も何度もあったわけです。いくつか思い浮かびませんか?
1つ僕が仕事を通じて実現したいこととして、フェミニストであれなんであれ「全員が勉強中だ」という前提をなるべく多くの人にインストールしたいというのがあります。
逆に言えば、これまであまりにもフェミニストばかりが一貫性や清廉潔白さ、論理の破綻のなさを強いられてきている。
「勉強中である」という状況を相互に許し合う。それによってはじめて完璧でない自分を許せる。そうでもないと勉強を続けていけません。心折れます。
- なるほど。「勉強中である」という前提がないことが、勉強の過程にある完璧でない相手を糾弾する口実として機能したり、完璧でない自分自身を許せず、ジェンダー論と向き合うこと自体を過酷なものにしたりすると。
ヒラギノ:僕も毎日間違え続けているし、人を侮辱した瞬間を思い出して、文字通り震えながら日々文章を書いています。「俺に何が言えるんだ?」というのは常にある。なにせ僕は男性ですからね。しかもシスヘテロ男性です。女性という属性を持っている人は100%被害者側の存在で、不均衡に一切加担するはずがない、なんてことは断じてありえませんが、シスヘテロ男性は圧倒的にジェンダーにまつわるものごとに関心を持たずに生涯を終えられるケースが多いといえます。
以前、Netflixのドラマ『全裸監督』について寄稿を求められたとき、何がまずいのか徹底的に論じた上で、最後にこう書きました。
「権利問題の話をするときは、どうにも被害者の方に感情移入しがちだ。ただ一度振り返って、加害者だったかもしれない可能性に目を向けてみる。
大丈夫だ、誰も大丈夫じゃないから。人間誰しも叩けば埃が出る。まずはとっくに汚れている自分の手をじっと見ることからだ。
筆者もそうした。人一倍汚れている手で書いたこの記事が誰かの何かを手助けすることを切に祈っている。」
つまり、僕自身も人を傷つけて、軽蔑されるべきことをして、それでも何も感じずにいた時間が長くあり、今もまったくゼロではないということです。すみません狙ってなかったんですけど瑛人みたいになってますね。
- それを把握したうえで、どの程度「勉強」すればいいのか?ということも気になります。
ヒラギノ:おっしゃるとおり、ジェンダーにまつわるテキストは数あれど、「じゃあどうすればいいんだ?」という話、つまり勉強法や初心者向けのガイドは十分整備されていないと思っています。
僕自身これをかなり大きな課題だと認識しているので、漫画やNetflixのドラマなどのエンタメから専門書まで幅広く、役立つコンテンツをおすすめしているんです。上記の記事でも末尾におすすめコンテンツ紹介ページへのリンクを添えましたし、この記事の末尾にも改めておすすめのコンテンツを紹介するページへのリンクを貼りました。
興味はあるけど最初の一歩のハードルを高く感じて動き出せていない人たちこそがジェンダー論・フェミニズムの未来だし、自分自身新しいジャンルに触れはじめるときには先輩たちが優しくしてくれたので、自分もそうしない手はない。
それに、海外の俳優やミュージシャンの中にはフェミニストを公言している人が多いので、彼女ら彼らを通して入っていくのもわかりやすいと思います。例えばエマ・ワトソン、レディ・ガガ、ビヨンセ、アリアナ・グランデ、リアーナなんかは海外エンタメに特別関心のない日本の方にも知られてきていると思うんですが、若手の女性ミュージシャンについてはわざわざ特筆することもないくらい、フェミニズムにまつわる言及が一般的なものになってきている。
- そういう状況を見て、女性が男性的な強さを求めている、権力を欲しがっていると捉えらえる方もいるように思います。
ヒラギノ:出ましたね、無理解が端的に表れているフレーズです。シンプルな話、女性の場合はスタートがマイナスなのでゼロまで持っていこうという話でしかないですね。で、そのマイナススタートだということに気づける男性がこれまであまりにも少なすぎた。もうやめにしようよ、それだけです。
そして、ここが今回お話しすることの核でもあるんですが、ジェンダー論に限らずあらゆる権利の問題の根幹にある「権威勾配」というものに触れておきたいです。
坂の上に立っている自分を俯瞰する意識
- 権威勾配とは?
ヒラギノ:あんまりいい喩えじゃないかもしれませんが、そうだな、「坂」をイメージしてください。坂に立って、まっすぐ前を向いているイメージ。
これまでの社会は、家父長制をはじめとした男女の不均衡に基づいて形作られてきた。個人レベルの体感の話ではなく社会構造の話なので、一人ひとりの「俺は/私はそうは思わないけど」という感想には一切付き合いません。
男性である時点で、権威勾配という坂の上に立っているとされる。視線は正面。視界は開けています。対して女性は、同じように正面を向いていれば目の前に坂があるのがわかります。対して、坂の頂点で正面を向いている人の視界には坂が入っていません。だからといって「坂なんてない」という話にはなりませんよね? なのにそう言ってしまう人は少なくない、というのが今の社会。
ちなみにこれは「男性」に限らず、「年上」や「上司」といった権威勾配において上に立つ属性全般に言えることです。自分がどんな色や形の不均衡を踏んで立っているかはなかなか把握しづらいわけです。
- なるほど。構造としてそういう状況があると。
ヒラギノ:そうした構造を自覚するために何より役立つのがジェンダー論やフェミニズムの知識だと思っています。ジェンダーや人種など、社会で起こっているさまざまな権利の問題について自覚的な状態をウォーク(woke=目覚めた)と呼ぶんですが、少しでもウォークな人を、特に男性を増やしていこうというのが自分のやっていることです。で、それにあたってものすごく注意を払っていることがあって。男性が”目覚める”にあたって、僕自身も含め”ヒーロー”になっちゃうケースを何度となく見てきたんです。……先輩方は頷かれるトピックだと思うんですが。
- ”ヒーロー”というのは……?
ヒラギノ:端的に言うと「俺が女を守る!」的なスタンスですね。ジェンダーにまつわるものごとに触れはじめたばかりの男性が、急に坂の上から「ここに坂あるぞ! 気をつけろ!」って言い出すんです。女性たちからしてみたら「今さら何?」でしかない。言ってる自分は何なんだよ、自分はどれだけ清廉潔白に生きてきたんだ? という話になる。
そうじゃなく、まず自分自身の特権性に目を向けて、今後訪れる反省の繰り返しの日々に向けて覚悟を決める、というのがあるべき姿勢として今考えていることです。男性という属性を持っている時点でこれまで見えていなかったことが無数にあるんだと思っておかないと、みんな知っていることを声高に叫び悦に入る空虚なヒーローができあがる。これは「白人」や「富裕層」、「年長者」でも同じこと。
- ……言葉もないというか、非常に恥ずかしい気持ちになってきました。
ヒラギノ:男性が、特にシスヘテロ男性がジェンダー論に触れるうえで、こういったスタンスの履き違えの問題は非常に、非常に根深いものだと考えています。僕自身めちゃくちゃにブーメランなので、今も血を吐きながら喋ってます。そして、こうやって自戒していることすら自己陶酔の引き金になりうる。というか今も自己陶酔がまったくのゼロかどうか、自分自身疑っています。警戒を怠ると簡単にダークサイドに行く。常に、おそらく一生つきまとう。100%は抜け出せないかもしれないし、仮にできたとしてもそれを声高に主張する時点でレベルはお察し。それに、自分がどうあれ別の属性の人からの値踏みはずっとあり続けるでしょう。だから、少なくとも自覚だけは持ち続けていこう、という感じです。
- 権威勾配はジェンダーや人種だけでなく、企業の役職なども引き金になってしまいますよね。
ヒラギノ:会社組織なんて特に権威勾配の温床ですよね。先輩後輩、上司と部下、クライアントと発注先、年齢、プロパーか中途か、正社員か契約・派遣社員か、部署ごとの力関係もあるでしょう。だからこそ、企業としてこの点について思考しないことは大きなリスクの要因になります。セクハラやパワハラがわかりやすい例ですね。そしてここでもまた「じゃあどうすればいいんだ」問題はあって。企業としてどう勉強してどう対策を講じればいいんだという声を聞くことがままあり、企業向けのジェンダー講習プログラムを制作しているところです。
企業は権威勾配の集中する場
- より詳しく、企業におけるケースについて聞かせてください。これまでに、企業や組織がジェンダーの課題に対して何か働きかけて、成功している事例はあるのでしょうか?
ヒラギノ:直近だと、兵庫県豊岡市の事例はどうでしょう。
前提として、地方自治体は「若者回復率」に支えられている。若者回復率というのは10代で進学などのために転出したあと20代で就職などのためにUターンする人の割合。これが低いと「豊岡市は帰ってきたくない街」だということになる。
そして実際低かった。男性はそこまでではないけれど、女性の割合がだいぶ低かった。豊岡市の市長は、そのデータを基に調査する中で、豊岡市がいかにジェンダーギャップのある、女性にとって住みにくい街かを思い知り、正式に謝罪をし、改善に努めた結果、数値が上向いてきている、というのがこちらの記事で示されていることです。
これに倣うと3つのポイントが見えてくると思うんです。
(1)自分の特権性を自覚すること
(2)自分が過ちを犯す可能性を想定に入れること
(3)過ちを犯したら十分な再発防止策を講じ、謝罪すること
特に「男性」や「年長者」など、わかりやすい特権性を持っている人はまずこのあたりを徹底するところからなんだと思います。(3)なんて小学生みたいな話ですが、企業や組織のトップがジェンダー論に悖る広告や施策をおこなった際に、世論として概ね好意的に受け入れられる、納得いく謝罪をしているケースってどれだけ思い浮かびますかね、という。
- 性質上後手に回らざるをえないというか、問題が起きてからでないと解決すべき問題がなく、動くに動けないという事情もあるかと思うんですが。
ヒラギノ:ジェンダーにまつわる取り組みをおこなっていない企業に決定的に欠けている視点だと思うんですが、「すでに過ちを犯している」可能性、本当に一切ないですか?
「まだ炎上してないから大丈夫」という感覚でやり過ごせるほど現代のコンプライアンスは単純ではないし、コンプライアンス的にありかなしかとジェンダー論的に適切か否かというのはまた別の話です。「すでに何かやらかしているかもしれない」という想定のもと施策を練っていくのが企業として業界に手本を示せる姿勢だと思います。
- 企業に限らずですが、こういった問題は、やるべきことが山のようにあって終わりが見えず、取り組みづらいように思います。
ヒラギノ:やはりここでも「勉強中」っていうのが大事になってくると思うんです。
これまでの不均衡だらけの社会を下敷きにできた企業たちが突然100%フェアな組織になるなんてことはありえない。だったら、ジェンダーにまつわる取り組みを始めていくぞ、社内にチームを作るぞとなった時点で「今後取り組んでいきます、発展途上なので間違うこともあるかもしれませんが、ご指導ご鞭撻のほど」ってリリース出せばいいのに、って思うんですよね。
- ああ、なるほど……。
ヒラギノ:「こういう取り組みを実施したのでうちはもう大丈夫です!」っていう見せ方をしたがる企業ばかりですが、そんな一朝一夕でどうこうできることじゃないので、そういう見せ方をする時点でお察しだなーって印象を持つ人は少なくないと思うんです。
僕はライターの仕事とは別で企業のブランディングやコンサルティングの仕事もしているんですが、ジェンダーの課題について意見を求められたらいつも上記のようなことを返しています。
で、やるべきことが山のようにあるのも、終わりが見えないのもその通りだと思います。でも人事も営業も総務もそうですよね。ビジネスって全部そうだし、やらないよりやるほうがいいのは間違いない。
経営戦略として、こういった分野の取り組みにまったく手をつけないリスクの大きさを考えたら、リソースや工数やノウハウの不足の問題は天秤にかけるまでもないものだと思います。
ジェンダー原始時代に、企業と考えるジェンダーの問題
- ヒラギノさん自身は、企業に向けた情報発信はしていますか?
ヒラギノ:現状、企業としてどう知見を蓄積していくかが社会的に整備されていないのが大きなネックになっていると思います。それを受けて、先ほども少し触れた、企業向けのジェンダー講習プログラムの制作に携わっていくことが決まりました。今はスモールスタートの段階ですが、専門家と組んでしっかり根拠に基づいたものにしていきたいと思っています。具体的な事例を提示しながら、その背景にあるジェンダー論のロジックを説明するものです。
本来民間ではなく公共が主導すべきことだと思うので、連携していきたいところですが。
あくまで学びの入り口として活かしてもらって、管理職や担当部署の方が継続的に知見を積んでいく端緒になればと思っています。
- きちんとロジックを蓄積できるのは企業として安心ですよね。
ヒラギノ:繰り返しですが、ジェンダーにまつわる課題を個人の感覚や心情、人間性によって判断するのは非常にリスキーで、筋の通らないことです。そうではなく、専門家の指導のもと、会社としてのガイドラインを持ち、制度として個人から切り離すことが今後進んでいくと思います。産休・育休の制度すら不十分な企業は多いので、目の前の業務調整を細々とやっていくしかないんじゃないかと思います。今はジェンダー原始時代なので、スタート地点が低い分やればやるほど効果が出ていくとも思います。
加えて、経営者・担当者それぞれが進行中の取り組みをシェアしあっていけば、徐々に社会全体のリテラシーが上がっていくはずだと信じてます。他のジャンル同様、知識が積み上がっていくのは楽しいことであるはずだし。
- その先にヒラギノさんが想定している未来像はどんなものでしょうか?
ヒラギノ:ジャンルを代表する立場ではないのであくまで個人的なものですが、ずっと目標として掲げているのは、初等教育のカリキュラムにジェンダーや人種などの権利教育が組み込まれることです。精神論的な道徳教育に取って代わるイメージです。
やはり本来学問だし、子供のうちから国語や算数と同じように常識の1つとして根付かせるべきものだと思っているので。
とはいえ、正直自分が生きているうちに達成されると楽観視していません。自分や一緒にがんばってきた同志や先輩方のやっていることが下敷きになって、「どうしてこういうことを小学校で習わなかったんだろう?」という疑問の声が大きくなり、我々の孫やひ孫世代がようやく小学校でジェンダー教育を受けるのかもしれません。それまでは自力で学習するしかないので、原始時代のその場しのぎとして僕の記事やジェンダー講習プログラムも有効になってくるかなというところです。
これからの世界で失いたくないもの
- では、最後の質問です。この先の未来、失いたくないものは何ですか?
ヒラギノ:知識をアップデートする習慣です。エンジニアさんやデザイナーさんがわかりやすいですが、他のあらゆる職業同様、生涯勉強を続けて、時流やトレンドを把握していないと立ち行かないと思います。
Less is More.
コロナ禍に直面して、「こんなことになると思わなかった」「想像できなかった」といった言葉が多く交わされた。
私たちは見えない未来に向けて、できる限りの想像とリスクヘッジを考えていく時代になったのではないだろうか。インタビュー中にもあったように、ジェンダー論はまだ十分に人口に膾炙していない。この記事が、緩やかに社会を変えるための一歩を手助けするものであることを祈っている。
写真:なかむらしんたろう
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(おわり)