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アートは、健常者も障がい者も、包括された世界で戦うこと。アーティスト松嶺貴幸氏インタビュー。

岩手県を中心に世界で活躍する現代アーティスト松嶺貴幸氏。
彼は、大きなハンディキャップを背負っている。思春期に負った怪我による頸髄損傷で、肩から下が不随になりながらも、彼が創り出す素晴らしいアートの数々。
アーティスト松嶺氏の今までとこれからについてお聞きした。取材当日は、光栄にも近年の代表作でもあるBlast Paintingの制作風景まで披露いただいた。ぜひ、ご一読いただきたい。

松嶺貴幸/岩手県雫石町出身。学生時代にフリースタイルスキーの事故により生死をさまよう。その後、新たな活路を見い出すため単身で渡米。日本では味わえないアメリカならではの、本場のエンターテイメント文化に出会う。現在は、現代アーティストとして自身の内側のエネルギーをアートに注ぎ込んでいる。

-まずは、怪我のことを聞かせていただけますか?

松嶺:元々すごいアクティブな子供だったんですが、小学6年生の頃にフリースタイルスキーを始めました。プロになるって信じて活動していたんですが、高校2年の時にグラブって技を練習中に宙返りして落下して、頸椎をバキッと折ってしまったんです。それ以来、頸髄損傷によって肩から下が動かなくなりました。

-無理に現在に紐づけることもありませんが、フリースタイルスキーも独創性を問われる競技ですよね。

松嶺:見た目の美しさ、高さ、技術点を問われます。表現という意味では、アートとすごく近い感覚ですね。

-肉体表現が思うようにできなくなってから、美術家として活動するまでを教えてください。

松嶺:アートを始めるまで、かなり色々ありましたね。怪我をした当時は、絶望してたかというと、それはそうでしたし。これからどうやって生きて行ったらいいのか分からなかった。何しろ、多感な高2ですから、何よりもモテたかったですし(笑)。

-(笑)。

松嶺:自分自身の尊厳をリカバリーできるものが、全くなかった。当時は、お医者さんや看護師さんからも「車椅子でも、こんなふうに幸せに暮らしている人がいるんですよ」色々教えてくれたり、さまざまな本なんかもいただきました。でも当時の自分の生きたい人生には、まるでフィットしなかったんですよね。

-それはなぜですか?

松嶺:誰かを否定したりするつもりは全くないので、誤解をしないで聞いてくださいね。んー。なんていうか、より車椅子らしい人の生き方を薦められているように聞こえたんです。介護されやすい服装を促されたり、医療や福祉の世界で生きることを望まれているんだなって感じることが多かった。

-あぁ。善意からの言葉であっても、自然と車椅子らしさを望まれていた。

松嶺:えぇ。それがまた絶望を呼んでしまって。怪我をする前の、本当にただやりたいことを追いかけたり、仲間たちとヤンチャしたり、そういう日々に戻るにはどうしたらいいんだって考えてしまっていたんです。それは、葛藤しましたし、一番辛いことでした。

-どうしても過去と比較すると、辛いですね。

松嶺:それで、リハビリを終えて半年経たずに、19歳から一人暮らしを始めました。実家の岩手県雫石町から盛岡市に越して、社会参加してみたんです。社会参加といっても、電車に乗ったりスーパーで買い物したり、すごく日常的なことから。
そしたら、自分が社会に全く馴染めていないことがわかったんですよ。前の自分とは明らかに同じ扱いをされていない。これをコンプレックスとして生きていくのか?自分しか持っていないメッセージに転換するのか?何年も葛藤しました。

-なるほど。

松嶺:そんな日々の中で気がついたことがあって。それは、僕がネガティブな発言をすると、何倍もの受け取り方をされてしまう。でも逆にポジティブな発言も、それも何倍もの受け取り方をしてくれることでした。じゃあ、これをアートとして表現して、何かしら社会に役に立ったり、インパクトを与えられるんじゃないかって転換できたんです。

アートは、自分自身が尊厳を取り戻す道だ。

-アートは、例えば政治活動などと比べると直接影響を与えづらいものでもありますよね。

松嶺:そうですよね。確かに同じようなハンディキャップを持った仲間たちは、社会活動するために政治に関わるケースも非常に多いです。制度を変えるため直接的な活動で、とても有益だと思います。でも、僕の場合、自分自身が内在的にやりたいことはアートだったんですよね。元々フリースタイルスキーでの表現が僕の原点なんですよね。それに一番近く情熱を燃やせるものとしてアートを選んだということなんだと思います。

-自分自身のやりたかったことに立ち返ったんですね。

松嶺:芸術表現というのは、本当に伝わりづらい。
でも、今は作品を作る、深い葛藤に沈み込んで浮上していくような気分で制作を続けています。これは、障がいのある/なしに関わらず、一人のアーティストとして勝負できているということなんだと思うんですよ。これは、僕が人としての尊厳を取り戻す道でもあったと思います。

-今は、純粋にアーティストとして活動できているということですね。

松嶺:23歳の後半から一年間の奨学金をもらってアメリカに留学したのがすごく大きかったんですよ。もちろん奨学金は、綺麗さっぱり使い切って帰ってきて(笑)。

-(笑)。

松嶺:あの1年がなかったら今の自分はないですよね。ハンディキャップを感じずに生きることができて、この体で生きていく自信がついたんですよね。人とポジティブな方向に強く話ができるようになったし、それによって人が感激してくれるのがわかった。自分の経験や、生きる力、それをどうやって人に伝えて、インパクトへと変換していくか、様々なものを得たと思います。

取材は、岩手県某所にある開発中のアトリエにて行われた。このスペースは、これから様々に進化していくとのこと。

-それほどまでに、アメリカの環境って違うものですか?

松嶺:違いますね。実は、日本と一番の違いは何かって言うと、法律なんですよ。アメリカでは1990年にADA法(Americans with Disabilities Act of 1990)という障がい者の人権に対する対するデカい法律ができたんです。

-障がいを持つ人が米国社会に完全に参加できることを保証するための法律ですね。

松嶺:これができたことで、障がい者への差別や、差別的な環境…例えばバリアフリーの基準を満たしていなかったりすると即、罰せられるんです。人が他人である障がい者に対しての意識を変えるには、法律くらい大きなところから変えないと、変わらないんじゃないかって思っていますね。
盛岡でもバスの運転手に「電動車椅子は乗れないよ」って言われることがあるんですよ。あれはね、もう罰せられるくらいの強い変化がないと変わらないんじゃないかって思いますよね。そう言う意味で、法律ってすごいデカい話ですよね。

-そうですよね。

松嶺:それに加えて、留学先カリフォルニアには、多様なバックグラウンドを持った人が集まっていました。あそこには、一人ひとりの権利と自由について考えてきた歴史と文化が醸成されていた。
あぁいう環境にいると、自分のハンディキャップは感じないっていうのもありますね。

-あぁ。別にハンディキャップも1つの個性じゃんっていう。

松嶺:良くも悪くも変な人もいっぱいいるんですよ(笑)。僕個人にフォーカスされないんです。

-そういう中だと、制作物そのもので勝負できるし、一人のアーティストとしていられるのかもしれませんね。

松嶺:そうなんですよ。日本に帰ってきたからも度々アメリカを訪れています。数十ヶ所のギャラリーやキュレーターに飛び込みで作品をアピールしたりしたんですが、やっぱりシカトされることもありますし、アートへのハードルはすごく高いですよ。同時に「お前、アーティストだろ?メシ食えよ」とか言って100ドルとかテーブルに置いていくような人もいる。アメリカは、アートへの感度はめちゃくちゃ高いことを肌に感じます。僕自身はそういう厳しい環境で活動したいと思っています。

-すごいですね。

松嶺:うん。現地でも活動できる自信もありますが、唯一のネックは日本の医療と福祉にかなり依存していることなんですよね。金額にすると、月90万くらいは依存していると思いますし、妻や仲間、ヘルパーさん、看護師さんに生かしてもらってます。それをアメリカで実現するのはやっぱり難易度が高い。挑戦しがいがありますよね。

インスピレーションの源泉。

-松嶺さんの芸術作品はどのように生まれているんですか?

松嶺:自分が生きてきた経験から立ち上がってくる「チャレンジ」「殻を破る」というモチベーションは根底にあると思いますね。例えば、Blast Paintingというシリーズは、自分の内面と重なるように生まれたんですよ。

-内面と重なるように?

松嶺:科学雑誌でスーパーノヴァ…超新星爆発の話を読んで「これって星が生まれ変わるための自然現象なんじゃないか?」というインスピレーションを得たんです。
これはきっと、自分自身も死んだようなところから「どうやって生きていくか」を自分自答してきたからこそ、そう感じられたと思うんですよね。星空に大小様々な星が点滅するようなイメージというか。

Blast Paintingは、松嶺氏が、カラーと細かな分量を指定し、アシスタントがシリンジにペイント剤を注入する。
とても細かなディレクション。
分量から差し込む角度まで、非常に細かい指定をしながらペイント剤を重ね入れていく。
中心部に、火薬を差し込む。
火を付ける様子。ペイントが飛び散らないよう、傘で防ぎながらの作業。
火薬が爆ぜる瞬間。
この作業を何度も繰り返し、作品は完成する。

-「星」にインスピレーションを得たということですが、それは岩手の環境とも関係がありますか?

松嶺:小さい頃からめちゃくちゃ自然の中で遊んでましたからね。自然には、絶対にどこか敵わないところを感じていますし、現象として不思議で仕方ないことに触れている感覚がある。クリエイションを続けるうえで、岩手にいる意味ってすごく大きいですね。

-あぁ。なるほど。

松嶺:東京に代表される大都市は、人に巻かれちゃうイメージがあるんですよ。人間関係とか雑念が多い。そういうのも嫌いではないけど、もっと人っぽい作品になってしまうと思うんですよね。自然が身近にあり、それらにインスピレーションを受けられるのは、地方都市ならではって思います。

-ハンディキャップがなくても岩手で活動されていたと思いますか?

松嶺:どうかな?生まれ育ったところですから、結局戻ってきたと思いますね。実際に東京で暮らそうと思ったこともありますけど、実際に生活するハードルは地方の方が高い。17時以降は電車もなかったりしますね。

-あぁ。インフラは確かに大変ですよね。

松嶺:それを差し引いても、コンクリートでは得られない感触がここにはたくさんある。今でも一番好きな感覚があるんです。それは、土に手を突っ込んで穴を掘ったりする感覚。自然に回帰しているようですごい好きなんですよ。

-ちなみに松嶺さんは、お怪我をされる前からアートには興味があったんですか?

松嶺:祖父が民芸品を手がけていたり、絵を描いたりする人だった影響で、小さい頃から絵を描くのはすごく好きでしたね。僕が描いたドラゴンボールとか、なぜか爺ちゃんが友達に自慢してくれてたんですよ(笑)。

-(笑)。でもそれを聞くと、フリースタイルスキーのストリート的なノリも、民芸品の土地に根付いた文化、松嶺さんの作品からは、両方を感じるように思います。

松嶺:まさにそうなんですよね。自分のアイデンティティって、雫石の伝統や歴史、先祖そこから切り離すことはできませんし、切り離したら崩壊してしまうと思います。

テクノロジーの恩恵と葛藤。

-松嶺さんは、デジタルアートも数多く手がけていますが、デジタルってどのように捉えてらっしゃいますか?

松嶺:自分自身がデジタルがあったことで救われいますからね。自分が様々な表現にトライできているのは、明らかにデジタルの恩恵です。すがるように17歳からずっと表現を模索しています。

-NFTアートにもトライされていますよね。

松嶺:メタバースと自分自身のアバター、NFT、Chat GPTなどのAIを通して経済圏が作られていく様子には、深い興味がありますね。これからの世界でどれくらいデジタルというのが必要とされているのか、自分自身も考えることが多いです。まさに次回作ではアバターと生の人間、メタバースとリアルな世界の間みたいなことを表現しようと考えています。

-松嶺さんは、メタバースをどうお考えなんですか?

松嶺:現状ではどちらかというと、生の世界を取り戻す感覚を持つ方に比重がありますね。メタバースの良さを深く知らないというのはありますけど、現在の生で得てきた経験や楽しかったことってたくさんあります。自分達がこの世界で表現できることの方が多いと、”今は”信じています。
メタバースってワラビとか山菜生えたりするんですかね?(笑)

-(笑)。

松嶺:仮想現実であの匂いするの?っていう(笑)。メタバースにおける「自分自身が望んだ世界を構築する」ことは、つまりある種の「神の超越」と言えると思います。先ほど話したような自然が持つ「人間には及ばない感覚」畏怖のの念みたいなものが大事だと、どこかで信じているんですよね。
人が全能感を持ったり、傲慢になることがいい状況とは思いません。そういうことで、色々なものを壊してきた過去もありますからね。自然が身近にあると、そういう傲慢さに気が付かせてくれるんですよね。

-松嶺さんは、デジタルの恩恵も享受しつつ、同時にデジタルを信用しきってはいないように感じます。

松嶺:僕自身、それはすごいジレンマなんですよね。電動の車椅子に乗ってるし、家もアトリエもデジタルガジェットに囲まれて、テクノロジーに助けられているわけですけど、100%信用できない。だからすごい葛藤はありますね。

-次回作にもそういった思いが反映されているとのことで、とても楽しみにしています。

包括された世界で真っ直ぐ戦う。

-松嶺さんにとってアート・表現ってなんなんですか?

松嶺:なんなんでしょうね。アートがないことを考えると…明日から何のために生きるのか、わからなくなります。自分自身がここにいることを伝えるためのものですね。自分の伝えたいメッセージがあるし、この世界に影響を与えていきたくためのものだと思います。

-どのようなメッセージを伝えたいと思うんですか?

松嶺:アートを続けることで、自分と世界がどう変わるのかを伝えたいのかもしれませんね。アートって、抽象的だから理解されづらい。でも、すごいエキサイティングですし、トップアーティストとして認められれば、経済的にも成功できる。

-アートは投資対象としても機能していますよね。

松嶺:あんまり、経済的なところを追いすぎないようにしようとは思いますけどね。特に現代アートは資産価値と紐づけられてしまう。ある種のルールも存在はすると思いますし、日本ではピュアにやりづらくなっていっている。でも、ある意味では、すごくフェアだとも思っています。

-フェア?

松嶺:あくまで僕個人は、例えば「車椅子でスキー」とかそういうんじゃなかったんですよ。オリンピックは文科省、パラリンピックは厚労省と管轄も違うんです。それぞれメダルにも違いがあるじゃないですか。僕はそういうのは、ちょっと違うんですよね。

-あぁ。否応なく、分けられてしまう。

松嶺:健常者も障がい者も、包括された世界の中で、きちんと戦うってことがやりたかった。抽象度が高いゆえに、アートはすごくフェアなんですよね。もちろん、挑戦する人を揶揄するつもりもないし、リスペクトもしています。でも自分自身は、「できない人枠」みたいなのは嫌なんですよ。

-これからは、どのようなことに挑戦するのですか?

松嶺:通過点として、スイスを本拠地に開催されているアート・バーゼルへの出展を目標にしています。グローバルで活動しながら、最終的には、次世代教育のためにアートスクールを創りたいんですよね。

-教育にトライしたいのはちょっと意外でした。

松嶺:芸術文化ってのは、もっと可能性も価値もあると思うんです。でも、一部の人しか、経済的に成功しない。文化貢献しながら、経済にもコミットするシステムを創りたいと思っていますね。

-それは面白いですね。

松嶺:岩手県の某大学生徒の、8割以上が公務員志望だと聞きました。それほど保守的な地域から、世界中のクライアントと繋がっていけたらすごい面白いですよね。

これからの世界で失いたくないもの。

-では、最後の質問です。松嶺さんがこの先の世界で失いたくないものはなんですか?

松嶺:失いたくないのは「現在の生」ですかね。死にたくないし、できるだけ永らえていたい。この生を楽しみたいし、創りたい作品もまだ山ほどあります。僕は、手足が動かないからディレクションをしながら、仲間たちの手を借りないと作品が作れません。人の何倍も時間がかかりますが、それは相当楽しいことなんですよね。この状態をできる限り長く続けていきたいと、そう思います。

Less is More.

松嶺氏は、非常に真摯かつユーモアを交えながら自身のハンディキャップもアートも並列に話してくれる。
取材日も松嶺氏の周りには、たくさんの仲間が自然と集まり、共同作業で作品を創ったり、たわいもない会話を交わしたり、今後のビジネスプランを話していた。

実際、取材が終わる頃には、私たちもハンディキャップのことを、ほとんど気にせずにただの人間同士として話せるようになっていたのは、きっと松嶺氏の振る舞いのおかげだろう。

ぜひ、松嶺氏の活動にご注目いただきたい。

撮影/写真提供:Akira Matsumoto (P-BOX)

(おわり)


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