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ELSIから考える企業が持つべき倫理と言葉。朱喜哲氏インタビュー。

最近注目されている「ELSI(エルシー)」をご存知だろうか?倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues)のことだが、グローバルではこのELSIが企業にとってとても重視され始めている。自らも大手広告代理店の主任研究員としてデータビジネスに携わる傍ら、大阪大学大学院文学研究科や社会技術共創研究センター(ELSIセンター)の招聘教員を務める朱喜哲氏にこのELSIをきっかけに企業が持つべき倫理についてお話をお伺いした。
自身も企業活動を実践されながら、哲学者としての研究も続ける朱氏。自身も実践される上で、今企業と私たちに求められていることは一体なんなんだろうか?

プロフィール
朱 喜哲(チュ・ヒチョル): 1985年、大阪府に生まれる。哲学者。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、広告代理店の主任研究員としてマーケティング・アナリティクスおよびプランニングに従事し、近年はデータビジネスの倫理的課題の研究と社会実装にもとりくむ。大阪大学社会技術共創研究センター招聘教員。主な論文に「陰謀論の合理性を分節化する」(『現代思想』2021年5月号)、共著に『信頼を考える』(勁草書房)、『世界最先端の研究が教える すごい哲学』(総合法令出版)、共訳に『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』(勁草書房)などがある。

哲学とビジネス。

-まずは、朱さんと哲学との出会いについて教えていただいてもいいですか?

朱:自分の出自から話しますね。父が韓国から来たキリスト教の宣教師で、母はいわゆる在日コリアン二世でその父も牧師というキリスト教一家に生まれ育ちました。キリスト教会の場合、牧師は若手の頃に地方の小さな教会を回りながらキャリアを積みますので、私も各地を転々としながら子供時代を過ごしたんですが、反抗期になるとキリスト教というものに反発したくなったんです。

-誰もが通る親への反抗がそのままキリスト教への反抗となってしまったんですね。

朱:そうなんですよ(笑)。その頃に出会ったのがニーチェです。有名なフレーズですが「神は死んだ」というニーチェの言葉に関心を持って、そこから哲学にハマっていきました。ちなみにこんなことを言っているニーチェですが、実は彼も父や祖父が牧師や神学者という家系なんですね。それもあって、単純なキリスト教批判とは一線を画した深みがあるように思われました。

-境遇がすごく近いので、思春期に出会ったら共感してしまいますね。

朱:ニーチェは典型的ですが、近世以降の西洋哲学には伝統的なキリスト教への反発と同時にその捉え直しという両側面があります。哲学史のなかで「神は死んだ」というのは、非常に古典的なモチベーションでもありましたし、いわゆる反抗期を終えた後も関心はさらに深まっていって、そのまま哲学の道へ進むことになりました。

-朱さんの非常にユニークな点の一つなのですが、一般企業に在籍しながら哲学研究を続けられているということが挙げられると思います。

朱:実は、大学に入ったときは「哲学or DIE」といっても過言ではないくらい、哲学しかやりたいことがなかったんですよ(笑)。なので、就職活動もせずに博士前期(修士)課程へ進みました。

-「哲学or DIE」(笑)。それがなぜ企業へ入ることになったんですか?

朱:博士前期課程の頃に、自分自身が思春期からずっともやもやと抱えている悩みや生きづらさ、どうしても固執してしまう問題、あえて総称するなら「病」と呼べるようなものについて、ある程度、哲学の言葉で説明できるようになっていることに気がつきました。ウィトゲンシュタインという哲学者の言葉ですが、哲学には、そういった「病」に対する治療的な効果があります。「普通」の人では及ばないほど深いレベルで悩んでいた先人たちに触れることで、自分自身に何が起きているのかを、ある程度ですが、明晰に説明できるようになりました。そうすると、自分自身の「病」からある程度解き放たれたんですよね。それからあらためて社会についても素直に興味が湧いてきたんです。

-なるほど。自分の内面の理解が進んだので外に向かったのかもしれませんね。

朱:そうですね。それに私の場合はとくに言葉やコミュニケーションについての哲学、言語哲学を専門としていたことも企業人になる上で重要なポイントでした。
とくにプラグマティクス=語用論と言われていますが、言葉の意味というのを、その使われ方から考える…言葉そのものの意味というのは、その使われ方によって明らかになるのではないかという研究をしていました。つまりは「言葉」を道具として捉える研究と言えるかもしれません。

-道具としての言葉って面白いですね。

朱:この研究テーマですので、社会でどんな言葉づかいが流通しているかを知ることも大事なポイントだったんですね。なので、やはり私たちの社会においてとても大きな存在である企業のこと、そしてビジネスのことをもっと深く理解することも必要だと思ったんですよね。

-研究の中で、企業に進む選択肢が出てきたんですね。実際にビジネスパーソンとしては、どのように企業と関わっているんですか?

朱:入社から数年間はそれまでまったくなじみのなかったデータ分析やデータ利活用ビジネスに従事していました。今ではデータ分析・統計と哲学の知見を併せて、さまざまな実務に取り組んでいます。幸運なことに哲学の研究と業務の垣根なく行き来できています。分析や統計といった数値的なものは、哲学のような人文系とはまた異なった言葉なので、研究にもすごく有益です。

-あぁ新しい分析・統計などを新しい「言葉」と捉えるのは、人文系ならではのすごくユニークな視点ですね。

データが特権的な言葉になってしまう。

-データサイエンスと哲学ってどのように関連があるんですか?

朱:データサイエンティストは、各種のデータから仮説構築と検証を繰り返しながら、制約の中で暫定的ながらも一つの「答え」を出していきますよね。そのとき、データの先に何かしらの「真実」、やや大袈裟にいえば「真理」があるということが前提になっていると思うんですね。
一方、哲学においても、例えば哲学者パースの言葉を借りると「私たちが正しいと思うことは後から間違っているとわかる可能性がつねにある。それでも真理というものが”ある”んだと信じることで初めて探究できる。真理とはそういう役割を持つんだ」と言われます。いわば「希望」としての真理を信じて、考える道筋や過程にこそ価値を見つけていく学問なんです。

-答えを導き出すデータと過程そのものが価値である哲学。相性がいいのかもしれませんね。

朱:パースのような「真理」の捉え方は、データサイエンティストにとってもしっくりくるんじゃないかと思いますね。企業に所属していて、他にも興味深いのが、分析・統計だけに限らず色々な言葉が会社の中にはあることです。例えば、マーケティング用語も、ひとつの言葉だと言えるかもしれません。マーケッターとして「一人前」になることってどういうことかと考えてみると、それは外から見ると、横文字やアルファベット三文字のマーケティング用語を自在に使いこなせるようになることとほとんど同じことなのではないかと思います。また同じ単語を使っていても、企業ごとにローカライズされていて、使われ方の文脈が違ったりするのですごく面白いですよね。これを私は「方言」と呼んでいます。業界や企業ごと、もしくは社員一人ひとりが少しずつ違う方言で話しているんですよね。

-あぁ。当たり前のように話しているけど、みんな少しずつ違う言葉で話しているのかもしれませんね。

朱:そういった状況において、数値的なデータってある意味では方言が生まれにくい、特有のパワーがある言語なのではないかということで、分析・統計を中心に考えていこうというのがビジネスにおいても支配的になっていますよね。政治の世界でも、EBPMと言われるように政策決定でさえ、分析・統計を重視するようになりました。

-確かにエビデンスが求められるようになっていますね。

朱:エビデンスを求めるのはいいことでもありますが、裏返すと数値やデータという言語が「特権的な」言葉になってしまったと言えるようにも感じています。

-確かに。

朱:結果として、ビジネスにおける方言を許容しづらくなったとも捉えられますよね。こうしたデータ一辺倒の時代になって久しいことへの課題感やカウンターとして、ここ数年で「データ・エシックス(倫理)」と呼ばれる、データや数値の公正さについて、私のような哲学者や倫理学と呼ばれるような分野からも考えないといけない時代になってきています。テック企業を中心に、データをどのように公正に使うのか、どこで歯止めをかけるのかという話で、今大きな曲がり角なのかもしれません。そういった中でビジネスにおいても重要なキーワードとして「ELSI(エルシー)」に注目が集まっています。

ELSIとは?

-朱さんは、ELSIについても研究されていると思いますので、改めて教えてください。

朱:倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues)の頭文字をとったものです。元を辿るとアメリカのヒトゲノム研究の文脈から生まれた言葉ですが、「新規的な科学技術を社会実装する際に生じる、技術以外のあらゆる課題」を指すワードとして、例えばデジタル技術の進展で急変する「データビジネス」の領域で叫ばれ出して、今やビジネスにおいても必要不可欠な観点として根付こうとしています。

↑ELSIについてはこちらにも詳しい。

-そうなんですね。

朱:ELSIは、日本だとちょっと特殊な文脈で使われています。世界的にはEthical=倫理のことを中心に語られるんですが、日本の企業はこの倫理の問題をあまり真摯に受け止めてこなかったところがあります。しかし本当は、私たち一人ひとりが日常の中で解決しやすい、考えていきやすいのは、Ethical=倫理だと考えています。

-法的・社会的課題よりも倫理から考えるべきだと。

朱:Legal=法的な問題は国の法律に則るわけですから、これはもう当たり前に守るべきことです。そしてSocial=社会的課題はSDGsやSNSにおける炎上対策みたいな文脈で理解しやすいですが、必ずしも企業側でコントロールできない領域でもあります。そうすると、企業側が主体的に打ち出し、社内外にコミュニケーションできるのはEthical=倫理的課題の側面なのですが、そうでありながら日本の企業では、Ethics=倫理ってあまり語られてきませんでした。

-倫理って個々人で持つべきなのは分かるんですが、企業で持つべき倫理ってイメージしにくく思っています。

朱:おっしゃる通り、日本では企業が持つべき倫理となると「よりよい社会への貢献」みたいなふんわりしたものとして捉えられてしまいますよね。

-なんとなく、お飾りでしかないイメージがあります。

朱:企業における倫理の問題は、その極端な例として、ナチス・ドイツの全体主義から考えてみると分かりやすいかもしれません。ナチスを批判し続けた政治哲学者ハンナ・アーレントは「全体主義とは、本当は複数であるはずの人々を一人の人間にすること。全く同じ思考様式・考え方にすること」であると言っています。
したがって、全体主義に抗うには、一人ひとりの人間が違うということを強く意識することしかないと語っているんですね。
「一人の人間の誕生は、一つの世界の誕生である。」それほど強く、複数の人々がいて、それぞれの言葉を話し、それぞれの価値観を大事にしていくことが、全体主義に抵抗する唯一の可能性だとアーレントは述べています。

-なるほど。

朱:個々人の判断は排除されてしまう全体主義・官僚機構の悪い意味での完成系がナチスだとして、これを現在の企業に照らすと「命令されたんで、サラリーパーソンとしてやります」というのは日常的に起こっていますよね。これが常態化することで、企業がナチス的な全体主義に陥ってしまうことは想像に難くない。
そうならないために、企業の中で個々人の倫理観がきちんと反映されやすい風土を作ることこそが企業における倫理的課題なのではないかと思いますし、こうした環境を整備することが企業における倫理観と言えるのではないでしょうか。

-あぁ!なんか一言で言い切るような倫理観を持つわけでなく、あくまで議論の場を作るようなイメージなのかもしれませんね。

朱:企業風土をベースに、倫理についての言葉を個々人が持ち、ビジネスにおけるヒヤリハット(危ないことが起こったが、幸い災害には至らなかった事象のこと)をうまく言葉にして共有することが必要ではないかと思います。
日本だと「高い倫理を持ちなさい。以上。」ってことが多いですよね。じゃあ高い倫理観ってなんだろう?って(笑)。

-思います(笑)。

朱:そこに働く一人ひとりも、等しく倫理について議論できるベースや、それを表現できるボキャブラリーが必要だということです。個々人がそれぞれの現場で抱える漠然とした違和感・不安感を適切に表現できるよう、例えば倫理学の言葉づかいを学び、たどたどしくても話せるようになることで初めて倫理についての会話、議論が始まると思うんですよね。

-そもそも、倫理にまつわる言葉を知らないから、企業内で話される機会が少ないんですね。

朱:そうなんですよ。これは、経営者や哲学、倫理の専門家だけの問題ではなく、組織に参加する誰もが学び、考え、倫理におけるヒヤリハットに気がつけることが理想ではないかと思います。実際にデータビジネスの実務に関わっていると、データを用いてやろうとしていることについて、一番敏感に「これって大丈夫かな?」「怖い」「気持ち悪がられるかも」という感覚を持っているのは、圧倒的に現場のデータサイエンティストやエンジニアです。ただ、なかなかそれを適切に発したり、上長に懸念を伝えていくような倫理の言葉づかいを持っていなかったりする。
もし社内で倫理的な言葉づかいが普及していったならば、それによって経営側がよくないことを取りやめる判断をすることもできますし、とくにグローバル企業においては、そういった判断に支持が集まることも多いですよね。今日では企業の倫理観がマーケティング上の差別化要素としても機能しています。日本企業が世界から遅れをとっているのもまさにこの倫理における議論ではないかと思います。

-なるほど。

朱:この倫理の問題というのは、今後日本の企業がグローバルで活躍しようと思った際に大きなリスクになるのではないかと考えていますね。
世界的に「倫理」は、宗教的な意味をもっているケースが多い。法律で定められているわけではないが、宗教的理念としての「べき」も様々にあるわけです。これは多くの日本語話者が思うよりも、とても強い意味で用いられています。

-そうか。宗教までを視野に入れると、確かに現状の日本の倫理では世界で通用しなさそうですね。

ロールズの「正義」と「エシックス・ウォッシング」。

-少し怖いのが、倫理がマーケティングや企業活動に飲み込まれているようなイメージがあることです。

朱:それはすごくよい指摘ですね。企業が倫理的なフリをしたり、アリバイ的な倫理を打ち出すことは、実態の隠蔽につながったり、なんとなく聞こえのよい言葉遊びで本質的な問題解決になっていないことは少なくないと思います。これはいわゆる「エシックス・ウォッシング」と呼ばれる問題です。
最近では、「エシックス・ショッピング」なんて言葉も登場しました。これは、企業が都合のいい倫理をピッキングする様子を、気軽なショッピングになぞらえて揶揄した言葉です。

-倫理を気軽に…。うぅーん。やっぱり怖いですよね。

朱:その気持ちもわかりますが、こういう状態って、企業が「倫理的な言葉づかい」を習得していくための一歩として、選択肢がない状態よりは良いと考えています。選択肢のない状態で倫理を考えようとしても土俵がないので、考えようも参加のしようもないですからね。

-例え「エシックス・ウォッシング」的な倫理であっても、選択肢がないよりはいいんですか?どういうことですか?

朱:少し丁寧に説明しますね。一つの例として政治哲学者ジョン・ロールズの提案する「正義」という言葉の使い方を通して考えてみましょう。

-はい。

朱:まずは、ロールズの画期的な主張として「コンセプション オブ グッド=善の構想」というものがあります。噛み砕いてお伝えすると「何が好きか嫌いか、どんなものをいいって思うかは、それぞれ違うよね。」ということです。社会はこういった多種多様な「善の構想」を持った人が寄せ集まって作られていますよね。

-一旦は、社会は「善」の寄せ集まりだと考えようということですね。

朱:その上でロールズは「社会とはコーポラティブ・ヴェンチャーである」と言っています。コーポラティブ=一緒にやる ヴェンチャー=冒険・挑戦です。このニュアンスが大事だと思うので、私は「社会とは、皆で取り組む命懸けの冒険である」と訳しています。
つまり社会とは、参加しているすべての人たちが共同で実施する冒険・挑戦であると。一人ひとりの「善」が違うが故に、対立や衝突が起こるリスクもありますし、そもそも冒険って絶対の成功を約束されているものではないですよね。
ひとつのチーム内で個々人の倫理や正義を持ち出しても、非常に子供じみた争いに発展するだけです。

コーポラティブ・ヴェンチャーについては、最新の共著『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる ―答えを急がず立ち止まる力(さくら舎)』でも詳しく語られている。朱氏に加えて哲学者・谷川嘉浩氏・杉谷和哉氏の3者が対話していく。
朱氏曰く「相手に対して否定せず。一問一答ではなく、少しずつ話がずれたり、回り道をし、お互いが影響され合いながら、その少しずつ変わっていく景色を楽しめるものになっていると思います。」

-一緒に冒険をするチームが崩壊してしまいます。

朱:ロールズはその冒険における最低限のルールが「フェアネス=公正さ」であると言っています。誰もが参加する冒険だからこそ、公正にバランスをとっていくことが大事だと。命懸けの冒険にみんなが参加してバランスを取っている、危なっかしい状態を持続していることを「正義」と呼ぼう、というのがロールズの提案なんです。

-あぁ!正義というのは、「バランスをとりながら冒険し続けている状態」であると。

朱:「正義」という言葉について、きちんと考えることで「バランスを取っている状態そのものを「正義」と呼ぶべきではないか?」と提案が導けますよね。そう考えたならば、個々人の抱く「善」レベルのものとは区別した「正義」という言葉づかいが重要になってきます。「正義の反対は悪ではなく別の正義」みたいなネットミームもありますが、それは単に「それぞれの善の構想は対立することもあるよね」という当たり前のことに「正義」という大切に扱うべき言葉を使ってしまっているわけです。

-なるほど!

朱:ロールズが活躍した1960年代のアメリカでは、「正義」という言葉が随分と都合良く、適当に使われていました。当時は例えばベトナム戦争において「正義」が語られていく中で、「正義」という言葉が非常に危うい、使いづらい言葉になっていました。

-まさに現在の「エシックス・ウォッシング」と同じように「正義」という言葉が使われていたんですね。

朱:そういった状況で、ロールズは「正義はそんなに適当に使っていい言葉ではない。もう一度、正義というもの、公正さというのをきちんと考えましょう。」と主張したんですよね。
結果的にロールズは20世紀後半に「正義」概念を復活させた哲学者と言われています。現状、あくまで恣意的なものから始まる倫理観であっても、その言葉づかいを元に考えていくこと、バランスを取っていくことは、非常に大事だと思いますね。

-「エシックス・ウォッシング」であっても、選択肢がないよりはいいことがよくわかりました。

↑ロールズに関しての朱氏の連載「〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす」にも詳しい。同連載は近々書籍化予定とのこと。

-「倫理的な言葉使い」って難しいですが、すごく大事なんですね。

朱:私がとくに研究している哲学者リチャード・ローティは、「言葉づかいこそが自分を規定するんだ。言葉づかいこそが自分や社会を作るんだ」と主張しています。私もこれは字義通りの意味でそうなんじゃないかと思っています。
ローティは「哲学とはカルチュラル・ポリティクス=文化政治だ」と表現するのですが、これを簡単に言うと「どんな言葉を使うべきか、使うべきでないのかを考える営みこそが哲学である」というものです。
先ほどのロールズの「正義」の話は、このローティの主張の実践とも言える事例です。バランスを取って話し合うためにも、言葉とその使い方はもっと大切にするべきですよね。

-現在だと、話し合うというより、言葉狩りみたいな状態になりがちですよね。

朱:ローティは「ファイナル・ボキャブラリー=終極の語彙」というコンセプトも打ち出しています。「他の人から否定されたくない、自分が本当に大事にしている言葉」のことです。同時に「誰にとっても正しく、唯一無二であるような究極の言葉はない」ですよね。

-はい。

朱:ローティの世界観の中では、書き換えられないはずの「ファイナル・ボキャブラリー」でさえ、言葉によって少しずつ入れ替わっていくものであると。
これは、人は言葉によって変わりうるという希望でもあると思います。例えば、日々会話をするなかでお互いが影響を受けて、少しずつ変化していけるのではないかなと思いますね。

倫理の言葉を持つためのフィクション。

-そうやって企業がある倫理観を持つことで、同じような主張の人しか集まらない集団になってしまうのかなと思っていますがどうお考えですか?

朱:個人が所属する企業の言葉に染まりすぎないことが大事ではないでしょうか。繰り返しになりますが、自分自身のちょっとした違和感をうまく発信するためにも、それを表現するための倫理の言葉を持つことが大事なんだと思います。

-倫理の言葉がないと何となく問題を感じていてもうまく表現できないんですね。

朱:これは企業だけの問題ではないと思います。現代は、なんらかのコミュニティやクラスタそれぞれに流通する「正しさ」があり、棲み分けと分断が進んでいます。それぞれの集団を超えた横断が非常に難しいですよね。
それに加えて、SNSで顕著なように個人が置かれたポジションにおいて「正しくなければならない」という圧が高まっていると考えています。ちょっとした間違いが、いわゆる炎上につながるケースも多いですよね。

-まさにそれぞれの倫理観を持ち出して、子供じみた争いになっているのかもしれませんね…。

朱:ここでもう一度ローティの話をさせてください。少し気をつけて話すべき事例ですが。
80-90年代のアメリカでは、経済成長も背景として、人種・ジェンダー・性的指向などの観点におけるマイノリティの「アイデンティティ」の承認をめぐる、カルチュラル・レフト(文化左翼)の運動が盛んになりました。そういった状況に当時ローティは「ちょっと待て、それは気をつけないと結構危ない論法だぞ」という危惧を表明していたんですね。

-どんな点が危ないんですか?

朱:マイノリティが「アイデンティティこそが大事だから、自分達のことを大事にしてくれ」と承認を求めるのはもちろんしかるべきことです。しかし、アイデンティティを強調するあまり、それを特権化するような論法は、実のところマジョリティ側にも使われてしまうんですよね。
人種差別問題を例に挙げると、有色人種の社会的地位が向上することは、相対的には白人の地位が下がることでもありますよね。すると厳然たる既得権益や権力勾配を無視して「むしろ白人こそが逆に差別されている」というロジックが図式的には成立してしまう。現象としてそういうことが起きてしまうということです。

-まさに現在の状況そのものですね。

朱:ローティは90年代にトランプ現象を予言していたと言われますね。なんにせよ、正しさの追求というのは、そういう対立を産んでしてしまいます。つまり、理屈で説得したり、論破したところで個人のファイナル・ボキャブラリーは変化しないんです。

-なるほど。

朱:そうならないためにローティが、ほとんど唯一の可能性として提示したのが「感情教育=センチメンタル・エデュケーション」です。
双方がわかりあうフローの中で感情的な紐帯を育むしかないし、それをベースに断続的にであれ話し続けるしかない。それがほとんど唯一かもしれない処方箋なんだと90年代に結論づけています。

-実際、感情教育をするにはどうすればいいんでしょうか?

朱:感情教育、共感性を育むために、フィクションやドキュメンタリーを活用するのは、解決策の一つではないかと思います。特にフィクションが大事かなと。映画、漫画、ドラマ…ストーリーを描くアートフォームにおいては、「正しい」「美しい」「強い」ものばかりでなく、「正しくなさ」や「弱さ」「残酷さ」も必ずといってよいほど描かれますよね。

-現実では考えられない、残酷な描写や悲しいこととか嬉しいこととかを描く作品は多くありますよね。

朱:そういった「正しくなさ」をも含むストーリーや登場人物を通して、誰かの人生について追体験したり、シミュレーションすることで、感情移入できる対象が広げられる可能性があるんではないかと考えています。自分と違うボキャブラリー、言葉使い、それぞれのスタイルをどれだけ体験できるかというのはすごく大事だと思っています。
ちょっと脱線しますが、実は哲学も、本来はそういう体験をするための学問だと思うんです。

-ど…どういうことですか?

朱:哲学って、外から見るとちょっと不思議じゃないですか?「私はスピノザを研究しています。」とか「私はカントを研究しています」とか(笑)。過去の偉い哲学者の研究ばかりをやっているように見えたりしませんか?

-そう思っていなくもないです(笑)。なんか歴史の研究家みたいなイメージはありますね。

朱:私もローティ研究者だと自己紹介することもあります(笑)。それも間違っていないのですが、やはり自分としては、コミュニケーションに関わる言語哲学の研究、さらに細かくいうと「理由」をめぐるコミュニケーションの解明こそが私の研究テーマです。ただ、自分でこうした大きなテーマを考えるためには、誰かの「型」から学ぶ必要があるんですよ。歴史の中で考え抜いた哲学者の思考パターン、考え方の癖、言葉づかいを学ぶ…そうやってさまざまな情報を自分の中に染み込ませていくことで、自分の中でローティが再現できてきます。自分の関心や考えをそのローティにぶつけることで、反応が帰ってくるんです。そうやって先人を批判しながら、自分自身の主張と議論を鍛え上げていくわけです。

-へー!イマジナリーフレンドみたいな感じですね。

朱:そう考えると、哲学というのもある意味では、過去の哲学者をフィクショナルな物語として学ぶ学問なんですよ。例えそれが正しくなくとも誰かの生き様を、自分の中にたくさん染み込ませることで、人はたくさんの言葉を話せるようになると思います。
実のところ、私は最初にローティを読んだとき、この人の言っていることは受け入れがたい、これを批判したいけど、どうやっていいかわからないと思って、それから付き合いはじめたんですね。やっぱり手強いなと思っているうちに、気づいたらもう二十年です(笑)。好きだから、共感するから専門にするという訳ではなかったりするんですね。

多くの言葉を話せるようになるために。

-それにしても倫理をはじめ、多くの言葉を話せるようになるのは大事なことですね。

朱:そうですね。現代は、多くの言葉を話しているようで、実は同じようなミームやジャーゴンを話しているだけの人が多いんですよね。そうやって安易に借り物の言葉を喋ったりするうちに、自分自身がよくない方向に変化してしまうのではないかと懸念します。

-あぁ。特にSNSとかそうかもしれませんね。

朱:加えて、関係のないニュースについて、何かしら態度を表明したり、リアクションを求められる。関心過剰な状態なんですよね。

-確かにどうでもいいニュースもついつい見てしまいますよね。

朱:まさに書籍「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる」でも描きましたが、もやもやした状態で、安易な答えを出さずに耐えるというのがすごく大事だと思っているんですね。

-関心を持ちすぎないことも大事なのかもしれませんね。

朱:関心=インタレストの語源を辿ると、「利害・利益」という意味を内包しています。関心を持つことで、自分に危害が及ぶと感じてしまう人が多いんですよ。例えば婚姻に関わる公正さ、夫婦別姓や同性婚の問題は典型的かもしれません。本来ならこれらは誰かが「損」をする話ではないのに、過剰な関心で自分の利害を見出してしまって、まるで自分が損をする、攻撃されているように錯覚している人はとくにSNS上では目立っているように思います。ちなみにインタレストにはもう一つ面白い語源があって「inter-est (esse)」で「間が、ある」という意味もあります。
本当は「間」があるからこそ関心が成り立つんですよね。距離や隔たりや違いがあることが、「関心」という言葉に内包されているということです。本来は違いを楽しむからこそ関心があるはずなのに、利害や損得、攻撃されているかどうかで考えてしまうのは、どうかなと思いますね。

-今「インタレスト」を例にお話いただきましたが、言葉を丁寧に理解することは、すごく面白いですね。

朱:哲学は概念のエンジニアリング、「概念工学」であるという人たちもいます。先ほど紹介したロールズの「正義」についての検討もそうでしたが、言葉を作ったり、区別したり、微妙に改定していくのは、哲学の大事な仕事のひとつなんですよね。

-言葉って、私たちが考えているよりももっと繊細で大事に扱うべきなのかもしれませんね。

朱:私は、人間は言葉で考えているわけでなく、ある意味では言葉に考えさせられているにすぎないのではないかと思ったりもします。
「人間は、遺伝子の乗り物にすぎない」という言い方がありますよね。それと同じように、言葉が乗り手であって、人間は乗り物にすぎないかもしれません。人間は言葉を使いこなしていると思っていますが、言葉そのものこそが主体なのかもしれませんね。

-めちゃくちゃ面白いお話ですね…!SFみたいです。

朱:言葉ってほんと不思議で、生き物のように繁殖するようなイメージがあります。何か一つの強烈なワードがバズったり流行する…一つのボキャブラリーだけが繁殖し過ぎてしまうと、言葉全体の豊かさも失われたりしますよね。いわゆる「定型表現」で埋め尽くされたまとめサイトやSNSをイメージするとわかりやすいかもしれません。
多様なボキャブラリーを残そうと言うのは、生物多様性における環境保全とほぼ同じ意味で成立するのではないでしょうか。自分を表現したり世界を理解するためにも、言葉をちゃんと理解して、精一杯乗りこなそうとするのは、学ぶ…と言うよりは、とてもエキサイティングで面白いことだよ!って思っています。

これからの世界で失いたくないもの。

-では、最後の質問です。朱さんがこの先の世界で失いたくないものはなんですか?

朱:「言葉の多様性」。ボキャブラリーの多様性ですね。いろいろな方言があったり、全然別の言葉を話していてもいい。パブリックというのは、本来そういうプライベートなレベルの自由さ、多様さを担保するために皆で考えるべきものですよね。同じような言葉だけでは楽しくないですからね。そのための最低限のルールとして、公正であるために倫理の言葉を学ぶことは大事だと思います。私自身も哲学者としてはもちろん、企業に所属して、データを扱うものの端くれとしてもそうありたいと思っています。

Less is More.

例えそれが絶対的に正しくないとしても、企業とそこに属する私たちが倫理の言葉を学ぶこと。自身も企業に所属しているからこそ、朱氏はその大事さを私たちと同じ目線で共有してくれた。
私たちは、今一度言葉を大事にし、バランスをとって話し合っていけるといいのかもしれない。
命懸けの冒険は、怖いだけでなく楽しいものだと思わせてくれた。

(おわり)

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