プラグマティズムと非合理な情熱。学びの果ての衝動。哲学者・谷川嘉浩氏インタビュー。
「プラグマティズム」という思想をご存知だろうか?プラグマティズムは、「実用主義/道具主義/実際主義」などと訳され、近代哲学の中でも特に注目され続けている思想ではあるものの…どうにもイメージが掴みにくく、きちんと説明できる人は少ないのではないだろうか。
Less is More.では2回目の登場となる哲学者・谷川嘉浩氏。今回は氏が専門としている「プラグマティズム」について詳しく聞いてみた。自身も哲学者であり、プラグマティストである谷川氏が、日々の中でどのようなことを考え実践しているのか、その一端にも触れられるかもしれない。
哲学とプラグマティズムを選んだ理由。
-以前のインタビュー以来、約2年ぶりですね。どうぞよろしくお願いいたします。
谷川:お久しぶりです。あれは長く読まれていて、時間が経ってからも反響があったインタビューでした。今日はよろしくお願いします。
-本日は哲学の中でも谷川さんが専門としておられる「プラグマティズム」という思想についてお聞きできればと思っております。そもそも、谷川さんはなぜ哲学者、しかもプラグマティズムを専門に学ばれたんですか?
谷川:順に答えますね。なぜ哲学を選んだか。あまりメジャーな答えじゃないと思うんですが、分野を横断して何でも学べるからですね。全然違う複数のことに取り組んでいても、「あぁ哲学ね!」って世間の人には許容してもらえます。私は欲張りなんです(笑)。
-(笑)。
谷川:どれだけ知性の光で照らしても絶対に暗闇の方が多くて、その暗いところには何があるんだろうって思うんです。「知りたい」が止まらないんですよ。で、哲学だったら何でもできると思ったんです。哲学の中でプラグマティズムを選んだ理由も同じで、そこに立てば色んなことを拾えると思ったからです。例えば、私が博士論文で扱ったジョン・デューイというプラグマティストは、哲学はもちろん、心理学、教育学、社会学でも活躍していたし、社会改善のための具体的な実践でも知られています。こんな風に広範な活動する人がいるのがプラグマティズムの面白いところで、私もそれにあやかっています。
プラグマティズムの歴史。自分が運命の主体になるための手がかり。
-まずは、プラグマティズムの歴史的な背景をお聞きできればと思います。
谷川:プラグマティズムは19世紀半ば、南北戦争後のアメリカで生まれた比較的若い思想です。よく哲学の時間感覚で、「最近の思想なんですけど」って一般向けにも話しちゃうんですけど、100年以上前です(笑)。
-哲学の時間スパンって面白いですよね(笑)。
谷川:戦後から20世紀にかけて、アメリカは経済的に急激な成長を遂げました。その中で、社会は巨大化・複雑化していきます。そうすると、社会の方向を決めるのに自分が関わっているという感覚が薄れます。わかりやすいところだと、「政治に関心を持ったり、一票を投じたりしても、自分の行く末も、社会のあり方も変わらない」と思ってしまう人も多いはずです。
-あぁ。そういう感覚ってありますよね。個人が社会に対してできることなんてないって思ってしまう。
谷川:そういう政治的無関心も、20世紀前半のアメリカで既に問題になり始めていました。巨大で複雑な社会では、個人と社会の関係が薄れてしまうからです。プラグマティズムの誕生には、こういう個人と社会の乖離が背景としてあったんですね。自分たちを押し流していく時代のうねりがあり、自分たちを知らないところで規定する社会構造があることを認識しながら、それでもどうすれば主体性を持って世界と関わっていけるか、どうやっていけば自分の人生の手綱を握られるのか。プラグマティズムは、そういうことを考える仕事もしてきました。
-自分を主人公として世界を捉え直すということですね。
プラグマティズムは「世界とどのように関わるか」を考えるためのもの。
-では、プラグマティズムってどのような思想なのか教えてください。
谷川:専門的な意味でのプラグマティズムは非常に複雑なので、ここでは私が一般向けの説明でよく使う図式でお話します。プラグマティズムは、哲学の色々な立場が宿泊しているホテルの廊下に喩えられるんです。部屋じゃなくて「廊下」。色々な思想と付き合う上での、態度やスタンスみたいなものです。だから、確立された思想のご託宣を聞くノリじゃなくて、「プラグマティズムって、こんな風に構えて暮らすことなのか」と思って聞いてください。
-あぁ。あくまでそれぞれが世界と関わるための「構え」であると。なんか「プラグマティズムってこういう考えだよ」って統一の答えがあるわけじゃなくて、思考法とかに近いんですね。
谷川:そうそう、そうなんです。私はプラグマティズムを一般の方向けに説明するとき、「実験主義」「改善主義」「楽観主義」という3つの軸をよく使います。この3つの軸を持って、現場と思考、実践と理論を行き来するスタンスのことをプラグマティズムと捉えるといいと思います。
-3つの軸はそれぞれどのような考え方なんですか?
谷川:まず、実験主義から。これは考えや思想を「仮説」と捉えて、具体的に実験して確かめようとすることです。研究やビジネスなどでも、色々調べて仮説を作り、一回確かめてみて、ダメだったら仮説を修正したり別の仮説に乗り換えたり、手法を変えたりして、リトライしますよね。そういった試行錯誤する姿勢が、実験主義です。自分達の持っている考え方、ある思想や政治的な主義を仮説として捉えて、世界と関わることでどのような変化が起こるかというのを実験とみなすんです。
-それは、個人としての思想を実験しようということですか?「今こう思っているから、こうやってみよう」みたいな?
谷川:これが面白いところで、個人の人生の話だけじゃないんです。共同体の考え、制度が表す思想も、一つの実験なんですよ。「このルールを実装したらどうなるか?」「この社会課題を、あのアプローチで解決してみよう」といったこともプラグマティズムでは実験と捉えます。大きい単位だと、「アメリカという国家自体が実験だ」という考え方もあるくらいです。
-国家としても実験してるんですね。
谷川:アメリカは、大統領選を通して4年ごとにそういう社会実験をし続けていると見ることもできます。そうして考えると、今年行われる中間選挙は、仮説を維持するか修正するかを考える機会としても捉えられる。実際のところ2年と4年で本当に思想的正しさが決まるわけもないんですけど、アメリカ社会は、大統領選を自分達の実験手法の選び直しと捉えている側面があります。
谷川:2つ目の軸「改善主義」は、具体的な「実験」を通じて実際に状況をよくしていこうというスタンスです。改善主義と実験主義はセットになって、試行錯誤的に問題解決をしていくという態度を生み出しています。改善への傾きがないと、「そもそもなんで実験するの?」ということになるし、実験の方向性も分からなくなる。そういう意味で、手探りしながら自分たちで諸々の状況をより良くしていきたいと思うことは、ごく基本的なことです。
-プラグマティズムには「これが一番良いあるべき姿」みたいなものがあるんですか?
谷川:プラグマティズムは、何が一番良いとか、唯一の理想は描きません。あくまでもホテルの「廊下」、つまり色々な思想と付き合う上でのスタンスなので。プラグマティズムから導けるのは、究極的には何が正しいか分からないので実験してみようという態度、そして、色々な考え(仮説)の実験を続けられる環境を整えることの重要性、ここまでです。良し悪しは別途議論すべきことで、それとこれとは別の水準の話という感じですね。
-なるほど。
谷川:プラグマティストが作った「思想の自由市場」という言葉があって、個々人や共同体が持っている考えや価値観が競い合うことを肯定する議論なんです。自由市場とは言っていますが、「おらおら競争しろ!弱肉強食!」ってノリではなくて、色々な思想や価値観がなるべく公平に走り出して切磋琢磨していくことが、この世界がよくなっていくために必要だという話です。だから、プラグマティズムは、マイノリティを積極的に尊重するんですよ。
-色々な考え方があれど「より良くしていこう」とそれぞれに思い、互いの邪魔をしないで自由に考えていこうってことですね。
谷川:そう聞こえなくもないんですが、むしろ批判や議論は大事にされます。公平に競争できる環境を整えることで、例えば、差別のような劣悪な思想が少しずつ淘汰されていくということですね。
-3つ目の軸「楽観主義」はどういうことなんですか?
谷川:悲観していたら何もできませんから「楽観的」でいようということです(笑)。
-楽観主義については、割と言葉通り楽観主義ってことなんですか(笑)。
谷川:あ、ちょっとくだき過ぎました(笑)。「もうええわ」ってやけになったり、シニカルになったりしないために必要な姿勢のことなんです。例えば、友達の悩みを聞くとき、傾聴したり後押したり叱咤したりと、相手の反応に合わせてアプローチを変えますよね。こういう実験・改善の背後には、「その場で解決しなくても長期的にはよくなっていくだろう」って構えがありますよね。楽観主義は、多様かつ持続的な実験によって長い目で見ればよくなっていくはずだというスタンスのことです。
-ただただ楽観するするわけではないんですね。
谷川:最低限こういう感覚がないと、問題解決のために持続的に試行錯誤するなんてことはできないはずです。短期的には揺り戻しやひどい出来事もあって、それは軽視できないけど、長い目でみればよくなっているはずだって心のどこかでは思っているって感じですね。
-この3つの軸から見ると、プラグマティズムがスタンスであり、思考するためのツールであるってのは良くわかりますね。
谷川:プラグマティズムは、色々な思想をアプリとして展開できるデバイスみたいなものなんです。例えば、デューイは「哲学というのはゴールではなくて、私たちが世界に対して敏感にしてくれるためのツール」だと言っています。仮説を変えれば、世界との関わり方が変わるというスタンスで、既存の哲学と向き合っています。
-「世界との関わり方」って思うと、すごく分かりやすい気がします。
実験・改善・楽観で世界は良くなっているのか?
-プラグマティズム誕生以来、様々に実験・改善を繰り返して現代に至るわけですが、谷川さんから見て世界は「より良く」改善されてきていると思いますか?
谷川:思います。1931年ノーベル平和賞を受賞したジェーン・アダムズという女性がいます。それこそ彼女もプラグマティストの一人と言われているのですが、地域の場づくりとか、慈善運動とか、ソーシャルワークの先駆者です。彼女の試みは、地域の社会保障やコミュニティデザインの礎になっています。こういう実験の積み重ねで、実際に世界は少しずつ、全体としては良くなっていますよ。
-実践を伴う哲学者って素晴らしいですね。
谷川:ほんとに。ロスリングの『ファクトフルネス』みたいな話で、教育機会とか貧困とか、データから見ても世界がだんだん良くなっているのは確かでしょう。もう十分良いということはないし、大きな後退も起きるけど、全体としては徐々によくなっていることを否定する必要もないと思います。でも、個別の悲惨を無視したり、「楽観しないのは愚か」と考えたりするのは、プラグマティックではありません。ここでの楽観主義は、改善を目指して試行錯誤的な実験を持続させることで、そのために一種の開き直りが必要とされるという話なので、安易な楽観も状況の軽視も筋違いなんですよね。「楽観」って言葉が強いので、もう少し説明していいですか。
-ええ、ぜひ。
谷川:プラグマティズムの楽観って、ポジティブ・シンキングとかポジティブ心理学みたいな前向きさとは関係がないんです。生き方や考え方がポジティブかどうかは、実際にはどちらでもいい。むしろ、「まだできることはある」「すぐに結果がでなくてもこれは大切だ」「今回もダメでも、声を上げたという事実を歴史に残すことに意味がある」とかって信じていて、何かを実験することに賭けられるかという話です。こういう開き直った暢気さって、体を柔らかくする上で役に立つと思うんです。
-体を柔らかくしてくれる?
谷川:自分が学んでいての体感なんですが、プラグマティズムって体を柔らかくしてくれるようなイメージがあるんです。プラグマティズムは、思想や哲学を「答え」ではなく「こういうアプローチをしてみたらどうか?」という提案や仮説として捉えるんだと説明しましたよね。「これがゴールだ」「答えはこれに違いない」「この考えを手放せばこの社会は全部おかしくなる」なんて考えると、グーッと視野が狭くなって体が緊張するけど、もう少し体をほぐして、色々な道具を見比べながら実験してみようと誘ってくれるのがプラグマティズムなんです。生活に対して気軽さをもたらしてくれるので、知っておくといいと思います。
現代のプラグマティストの潮流。
-現代のプラグマティスト達はどんな実験や改善にトライしているんですか?
谷川:プラグマティストの中の一つの潮流として、「哲学解散しよう」というような議論が起きているのを面白く感じています。
-哲学解散(笑)!
谷川:哲学というと「真理の探究」ってイメージがありますよね。真理が「予め定まっている絶対的な正解」だとすると、哲学の仕事はそれを正確に写し取ることだということになるけど、そういう受動的で単純な哲学観は終わりにしよう、その代わり、哲学のオルタナティブな役割を果そうって提案があるんですね。より具体的で社会的な課題に関心を向け直したり、世界の多様な関わり方を生み出すことに力を発揮したりするべきだと。ここまでくると、その仕事を「哲学」と呼ぶどうかは些末な問題です。
-あぁ。思想よりも、具体的な解決法の中に哲学があるんではないかと。
谷川:こういう議論は、「哲学の終焉」と呼ばれています。重要なのは、解釈や調査を通じた社会の問題解決の方であって、手段や関心や問いが、伝統的な哲学のやり方に沿っているかは問題じゃない。だから、哲学者の仕事が状況次第で、文化批評とか、教育学や社会学だとみなされても別に構わない。そういう論争的な問題提起です。でも、プラグマティストが「哲学の終焉」とかぶち上げられるのも、十分に哲学を身につけているからなんですけどね。
-確かに一度きちんと学んだからこそ言えることなのかもしれませんね。
谷川:そうなんです。この結論部分だけとった人は、「哲学って学ぶ必要ないやん」「これ無駄ってこと?」って話になるんですけど、そうじゃない。実を言えば、従来の哲学の流れを変えたり、新たに作ったり、つなぎ直したりといった相対化の動きが、哲学自体に組み込まれているってことが哲学を知っていればよくわかる。例えばブレーズ・パスカルという人は、「哲学を馬鹿にすることこそが、真に哲学することだ」と言っています。でも、高慢になって知を軽んじたわけではないんです。じっくり哲学を学んだ上で突き放し、そうやって斜に見て哲学を突き放している自分をも突き放す……そういう繊細な精神がこの裏にはあるからです。
-色々文脈があって出てきた言葉の最後だけ受け取ればいいと思っていると。
谷川:ついでに言うなら、私は「哲学の終焉」を哲学することの自由さを再宣言するものと受け取っているんです。つまり、これが哲学だという唯一の形がないので、逆に色んなことを「哲学」って言えますよという話です。これからの哲学は、学んできたことをバックパックに詰めてどこへでも出かけられる。哲学の知識やスキルを横展開しながら、新しい場所でもしっかり学んで、何にでもチャレンジしていい。芸大のデザイン科にいるくらいですから、私は「哲学解散!」をあえて真に受けたんですよ(笑)。プラグマティズムの哲学観は、軽薄だとも言われるんですが、社会に対して真剣だし、哲学に対しては軽快な感じがして私は好きですね。
プラグマティストとして考えていること。
-谷川さん自身は、プラグマティストであると考えてらっしゃいますか?
谷川:どうなんでしょうね(笑)。私自身はプラグマティストだと思っていますけど。
-ご自身で試されていること、実験されていること、考えられていることがあれば教えてください。
谷川:最近考えていることだと、「Unlearn(アンラーン)」についてですかね。学びほどき、学びほぐし、脱学習……色々な訳し方がある、あれです。
-あぁ。最近、組織論やビジネス論などでもUnlearnって良く聞きますよね。ざっくり言うと「これまで学んだ知識をいったん破壊し、常識という思い込みの壁を取り除くこと」だったように思います。
谷川:あの考え方が安易に広がることに、私は批判的なんです。UnlearnってLearn(ラーン=学び)がないと成立しませんよね。Unlearnって何かをマスターした後に必要となることなのに、ビジネス雑誌の特集で気楽に使われるし、企業研修の講師役になって出かけたときにもしばしば聞きます。Unlearnって、茶道や武道でいう守破離の「離」ですよね。言ってみれば、現代は「離」だけが魅力を持って流通していて、型を身につけることを脇に置いているような状況です。でも、「はい、これで学び終えた」と言えるほどLearnは単純でもインスタントでもないですよね。型を学ぶ面倒さから逃れるために、Unlearnって言っているところがあると思っています。
-確かに「私は既に放棄するほどに学んだ」って思ってる状態って、奢ってるようにも思えますよね。
谷川:そうなんですよ。今私が書いている哲学入門では、同じことを「哲学は、知識と想像力をセットで学ばないと仕方ない」と説明しています。「知識」は、概念とか理論のことです。情報として頭に叩きこんで、必殺技みたいに概念の名前を覚えても仕方ない。「知識」をどう動かし、現実で運用するかを教えてくれる「想像力」とセットで身につけないといけない。ここでいう「想像力」は、その知識がどういう事情や問題意識で作られたものか、知識がどういうノリで使われているかということです。知識の背景まで学んで初めて、Learnと言えると思います。
-なるほど。知識は増えているけど、想像力が足りないんですね。
谷川:ちなみに「スターウォーズ」には、ヨーダからルーク・スカイウォーカーへの台詞として “You must unlearn what you’ve learned.”(学んできたことをアンラーンしなさい)という言葉が登場します。でも、ルークやレイは大変な訓練と経験を経ている。「学んできたこと」の部分は、すっ飛ばせるほど軽くない。ヨーダがUnlearnしろと言うのは、膨大に学び、型を身につけた後の話なんですよ。それに対して、現代人は結論だけに飛びつこうとしているし、食べやすくまとめられた知識や答えだけを求めています。要約を暗唱できても、クールな概念の名前を覚えても、それだけで運用できるわけないですよ。ビギナーズラックがあっても、それはサステイナブルじゃない。想像力抜きの知識だけを身につけるのは、使い方や目的、使いどころも知らずに色んな道具を揃えて喜ぶようなものです。
-英単語だけたくさん覚えても、英語が話せるようにはならないみたいなことですよね。
谷川:まさに! 無数の例文やシチュエーションをインプットしないと、それを運用するだけの想像力を持てないんです。単語だけ宙に浮いたように覚えても仕方がない。チェリーピッキングって言葉がありますけど、自分に都合よく果実だけ取ろうとすると、テンションは上がるかもしれないけど、結局は自分のためにもならないんですよね。哲学の実は、もっと消化に時間がかかるものです。
でも、知識に惹かれる気持ちもわかるんですよ。知識を表現する専門家の言葉遣いも、なんとなく深そうで、かっこいいんですよね。「リゾーム」や「常時接続」、あと「世界はなぜ存在しないか」とか「哲学の終焉」とか(笑)。こういうライトセーバーみたいな目立つ武器に惹かれる感覚はよくわかるんですけど、それが生み出された経緯とか文脈、使いどころとセットでLearnしないと、結局その武器は使い物にならないですよね。
-哲学の言葉って必殺技みたいで使いたくなっちゃいますよねぇ。ただ、日々の忙しさの中で、それでも学びたいという意欲があるからこそ、チェリーピッキングになる気持ちもすごく良くわかるんです。
谷川:きっとUnlearnが流行っている背後には、面倒くささをカットしようという気持ちがありますよね。何かをきちんと学ぶには、時間的にも精神的にもコストがかかるものです。面倒を避けたい気持ちはわかるけど、時間をかけずに学びたいって、「練習せずにクールなアドリブ演奏がしたい」とか「汗かかずに有酸素運動したい」くらいむちゃな話ですよ(笑)。
-なるほど(笑)
谷川:あと、世の中のいうUnlearnって絶妙に自尊心をくすぐるんですよね。Unlearnしたヨーダみたいな存在って、何も学んでいない私たちと一見似ている素朴なことを言うから、一瞬たりともLearnしていなくても自分と重ねられてしまう。
パスカルの「哲学を馬鹿にするのが真の哲学だ」とか、プラグマティズムの「哲学の終焉」にも同じことが言えます。これって、哲学者による哲学のUnlearnの提案なんですね。でも、この結論を形だけ真似すれば、誰だって偉人の声に自分をぴったり重ねられて、かしこぶることができてしまう。けど、そんなことをしてもどこにも行けませんよね。知識があっても、それを運用する想像力がないから。結論だけ真似する人は、新たに何かを生み出せたり、次の一歩を踏み出せたりはしないですよ。
-私たちが正しく学ぶには、どうしたらいいのでしょうか?
谷川:哲学を学ぶということで言うなら、「好きな哲学者をつくる」といいと思いますよ。過去の有名哲学者でも、現代日本の哲学者でもいいです。「これは!」と思う人に、私淑するってことです(尊敬する人から直接教えを受けるのではなく、本などを通じて間接的に学ぶこと)。まもなく出る『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)にも書いたことなんですけど、「好きは、教養の始まり」です。ここでいう教養は、何か深遠なものじゃなくて、「世界の面白がり方を知ること」です。だから、なんとなくある哲学者を好きになれば、その人の「世界の面白がり方」をインストールするチャンスができる。
-「世界の面白がり方を知る」と捉えるとすごく分かりやすいですね。
谷川:好きな哲学者が一人できると、「その哲学者だったらこういうときにどう考えるかな?どう言うかな?」ってシミュレーションするクセがついてきます。例えばデューイだったらどういうだろう?って思う。こういうプロセスで、知識と想像力はセットで身についていく。一人で終わる必要はなくて、「じゃぁ別の人ならどうだろう?」って「好き」を増やしていけばいい。
私淑といっても、哲学者だけに絞る必要はありません。物語の登場人物の知識と想像力をインストールしてもいい。私自身も漫画や映画から学んでいますし、学びというのはそんなに難しく捉える必要はないと思います。
-そう考えると、日々意識して色々なものに触れるだけでいいんですかね。
谷川:そう思います。安易にUnlearnしなくても、色々な人の「面白がり方」を学ぶだけで十分豊かだし、本来のアンラーンって、学び続けることなんじゃないかって思うんですよね。そのとき、前に学んだことは血肉になっているわけですから。
-なるほど。安易なUnlearnではなく、学び続けることとしてのUnlearn。
谷川:今日お話してきた学びを、「色んな他者を心に住まわせていくこと」だと言い換えてもいいかもしれません。これを裏返せば、Learn抜きのUnlearnをしようとする人は、「自分の中に自分しか必要がない」と思っているということになります。自分というエコシステム(生態系)に多様性があってこそ、人は寛容でありうるし、まともさの感覚を持つことができる。だから、多様性や多元主義は理想論じゃなくて、とても現実的な問題です。もちろん、私も他人事ではないんですけど。
学び続けた先に醸成される「衝動」。
-学びの意義というか、どういったことに向けて学ぶべきだとお考えですか?
谷川:単純に楽しさのためじゃないですか(笑)。タモリさんも、「教養はあればあるだけ楽しいんですよ」って言ってましたよ(笑)。何かのために学ぶことも必要ですが、手段でしかない学びって退屈じゃないですか。有用性の論理から離れて、学びに没頭できるというのは、とても楽しいことです。
-確かにタモリさんって楽しそうですね(笑)。
谷川:ちょっと話題を足しますが、学び続けることって、具体的な動機とかインセンティブじゃなくて、衝動の上に成り立っているんです。哲学者の鶴見俊輔も、「世界と関わっていくための衝動」が大学以降の学びを支えていると指摘しています。
-衝動?
谷川:衝動は、いわゆるモチベーションとかじゃないんですよね。例えば、「スターウォーズ」を観ていて「うわ!レイのモチベ高っ!」なんて思わないじゃないですか。『モチベーション3.0』とか読むと人間の行動がわかった気になりますけど、実際には、動機だけで人の行動は説明できないんですよ。自覚しうる動機では説明できないところで自分を突き動かすものを持つことがある。それが「衝動」です。
-なるほど。確かにそういうことってありますね。
谷川:前回のインタビューでも使った例ですけど、「エヴァンゲリオン」の加地リョウジって、自分の命や世界の存亡がかかっているとき、暢気にスイカを育てているんですね。収穫するためですらなく、ただ彼はこの趣味に没頭して、彼なりの学びを続けている。ここにあるものを「非合理な情熱」と呼んでいいかもしれません。なぜこれに衝動を持っているか、合理的に説明つかないですから。私たちも、アニメや漫画ほどドラマチックでなくても、学ぶうちに何か自分を突き動かす「好き」を掘り当てることがあります。そういう衝動を一つでも持っていると、連鎖するように次の学びが生まれていくと思います。
-私たちは衝動を得てこそ、世界と関わることができるのかもしれませんね。
谷川:そう思います。何に衝動を持っても楽しいでしょうけど、哲学にいいことがあるとすれば、哲学って2500年以上も続いている長い会話なので、どれだけ学んでも際限がないことです。この終わりのなさを前にして「まだまだ遊べるやん」って楽観できるなら、こんなにいい遊び場はないですよ(笑)。それに、プラグマティズム的な哲学理解に立つと、どの学問や社会の領域の出来事も、哲学だと言えるわけで、いよいよ終わりがない(笑)。
これからの世界で失いたくないもの。
-では、最後の質問です。谷川さんがこの先の世界で失いたくないものはなんですか?前回は〈ディーセンシー〉(まともさの感覚)とおっしゃっていましたよね。
谷川:せっかくなので今回に関係することを言うなら、「時間のかかる学び」ですかね。京大って、でっかい図書館がむっちゃあって、信じられないくらい本や論文を受け入れていて、さらにデータまであって……と、みなさんが想像する何千・何万倍も多く、本や論文は刊行されています。しかも、インクの染みやピクセルの一つ一つは、誰かが先人たちから膨大に学んだ上で書かれている。学びの果てにある衝動が形になったものなんですよ。書庫みたいな静かな場所に入ると、ここにある知恵が成立するまでに積み重ねられた時間を実感して、時々圧倒されます。ありがたいことに、王侯貴族だけじゃなくて私たちの誰もが、そのどれにもアクセスできる権利を持っているんです。
膨大な情報量を前にすると、私は「お、まだまだ行けるやん」って冒険心が湧いて楽しくなってきますけど(笑)、でも、そうは思えない人もいますよね。あまりの情報量に立ちくらみしたり、身がすくんだりするかもしれない。でも、怖がる必要はないと思っています。子ども心に大きな湖だと思ったものが、成長してから見たら小さい池だったってこともあるわけで。重要なのは、適切な学びの案内人なんだと思うんです。それもあって、人類が積み上げてきた知識と想像力の膨大なアーカイブに触れる手助けをする、図書館司書のような役割を、私は果たしたいし、果たしているつもりです。うまくメディア(媒介)になる人がいれば、学びに踏み出していくことを、多少気楽に思ってもらえるんじゃないかなって。要するに、「時間のかかる学びと、それを可能にする環境」が失われてほしくないってところでしょうか。
Less is More.
さてさて、プラグマティズムどうだっただろうか?プラグマティズムの導入編としては、少しでもその魅力が伝わっただろうか。
自分達の普段営みを捉えなおし、世界と自分の関わりが少しでも良くなるきっかけとなるといいな、と思う。
(おわり)